1章 神様は耳を失った

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1章 神様は耳を失った

――私は耳が聞こえない。 桜の季節がやってきて、僕は驚くべきものを見てしまった。変わり果ててしまった彼女。3月のあの日以来、一度も目にしていなかったあの彼女だ。白河哲也、この物語の語り手は驚きのあまり言葉を失うしかできなかった。 「ねぇ、あの子さっきからずっと下向いたままだよ。」 「いるんだなぁ。あんな漫画みたいないじめられそうなキャラ。」 周りの生徒が噂する中、まるでその声が一つも聞こえていないかのように、その少女は机を見つめたまま微動だにしなかった。僕がずっと憧れて、ずっと見てきた彼女がまるでちっぽけな蟻のように感じた瞬間だった。 いくら先生の頼まれごととは言え、入学して早々パシリとは僕も落ちぶれたものだ。僕の頭の中はもう彼女のことでいっぱいで、全ての出来事があっと言う間に終わり、入学式の午前授業は気がつくと終礼を迎えていた。 「じゃあ、これ職員室まで頼むな。」 「…はい。」 本当は早い所友達を作って、クラスに溶け込んでおきたかったが、仕方ない。教室ではすでにこの後どこに行くかで話が盛り上がっていた。 「あれ、いない…。」 さっきまでずっと座っていたはずの彼女がかばんを残してどこかに行っていることにだけ気が付きながら、僕はさっさと教室を後にする。 「早いとここれ届けちゃわなきゃ。」 そう独り言をつぶやきながら職員室の座席表を眺める。幸い、担任の席はドアの1番近くらしい。 「ということは、今話してる、この声も聞こえないんだな?」 ドアを開けようとしてすぐそばで聞こえた担任の声に、僕は驚いてその手を思わず止めてしまった。どうやら先客がいたらしい。一言も喋らないから気が付かなかった。 「本当に耳が聞こえないのに、特別支援学校には行かなかったのか。かわいそうに。席替えは必ず前にしてやるから…ってこれも聞こえないのか。」 さっきから先生の様子が変だ。まるで返事がないのに一人で話している。特別支援に、耳が聞こえないって一体どういうことなんだ。 「じゃあ、また明日な。」 そう声が聞こえた時、ドアに耳を当てて話を聞いていた僕は急に開いたドアに驚いて尻もちをついてしまった。 「わっ。痛た…。」 見上げるとそこには困ったような顔をしている、彼女がいた。彼女は一礼だけするとそのまますぐに行ってしまった。 「今の話聞いてたのか?」 廊下に一人残されていた僕は先生から少しキツめの視線を向けられてしまった。大方あの話は秘密にするはずだったのだろう。僕はこうして秘密を共有する者という立ち位置を手に入れてしまったのだった。それも初対面の全く関係のない人間ならいいが、これも神様の思し召しか、初恋にして初失恋を体験させられたあの彼女の、だ。詳しい話は後々するとして、彼女黒瀬梓は耳が聞こえないらしい。病院で診断すれば正常と出るにも関わらず、どうやら精神的な面で本当に聞こえないのだと言う。 「どうりであの噂もスルーしてるわけだ。」 中学時代の彼女にうわさ話をスルーすることなんてできないはずだ。耳が聞こえていれば、あの頃みたいに彼女はきっと明るい。それでも、あんな風になった理由、それには検討がついている。 「検討はついていてもなぁ。」 正直に言うとこれは奇跡でしかない。また彼女に会うことができたのだ。あの日失恋をしたとは言ったものの、僕は正式に気持ちを伝えることさえできていない。間接的な失恋だ。せめて元の彼女に戻ってもらって、そこで改めて僕の想いを伝えたい。 「チャンスは掴むものだ。」 会えないなら仕方ない、でも会えるのなら話は別だ。絶対に彼女を元に戻してみせる。彼女の耳をまた聞こえるようにしてみせる。 登校日二日目。どうやって彼女を元に戻すのかを考えている最中、厄介な人物に見つかってしまった。 「哲也ーー!!」 「げっ。遥…」 「遥じゃなくて、遥先輩と呼べ!!」 彼女、桃井遥がどうして面倒かというと、近所に住む幼なじみでありながら、同じ学校の高校3年生の先輩。受験勉強もあるくせに部活の部長なんて引き受ける人の良さゆえの面倒くささ。 「部活は決めた?」 そう言えば今日部活の話をするとか、昨日担任が話してたか。 「もちろんうちの部に入部してくれるよね?」 すごい圧力だ。たしかに他にどの部活に入ろうという気持ちはないけど、なんせ遥は文芸部だ。やはり男たるもの運動部に興味が出るものだ。 「哲也は昔から運動音痴なんだから、諦めてインドアに生きなさいよう。」 しれっと嫌味を言いながら、遥はそっぽを向いた。確かに僕は運動ができないが、文芸部なら誰でもできる…。 「そ、それだ!!!」 「え?何が…?」 僕は遥に昨日聞いたこと見たこと全てを話した。勿論遥だって一個下の後輩の彼女のことを知っている。 「黒瀬ちゃん、そんなになってたとはね。元々は真っ直ぐで明るい子だったのに。」 それを取り戻したいんだ。僕は再度拳を強く握りしめた。 「哲也は黒瀬ちゃんのことが今でも好きなの?」 それはわからない。その言葉が不思議と口に出せなかった。わからないと曖昧にしたくないという自分と、それでもわからないという事実を変えられない自分が葛藤している気分だった。 「結論は出てないか…。でも部活、いいかもしれない!文芸部なら聞こえなくてもできる、私も協力するからさ。」 遥は面倒なところはあるが、やる時はちゃんとやってくれる人だ。 「じゃあ、放課後までにちゃわと誘ってきてねー?」 遥はそういうと走って校舎に入ってしまった。気がつけばもう学校に着いていたのか。僕はそのままゆっくりと教室に入った。慣れてはいる。休み時間常に孤独なのはよくあることだったし、今そんな状況になったのも仕方のないことだ。それはわかっていても、高校デビューしようという密かな僕の計画は簡単に幕を閉じてしまった。 「こうなったらせめて…。」 今思えば僕は黒瀬梓さんのことをなんて呼べばいいのだろう。元々地味で光のような存在の彼女とは釣り合わないと思っていたから、会話したことなんて殆どなかった。正直、僕が彼女のことを知っていても彼女は知らないかもしれない。いや、多分知らない。 「いきなり部活に誘うのは変かな…?」 でも今更遥との約束を破ることもできない。そもそも耳が聞こえないのだからメモに書いて渡す必要がある。変に思われないようにメモを渡す必要があるし、なるべく目立たないようにしないと周りのやつにどう思われるかすらわからない。 ートントン 肩を叩かれた。振り返るとそこには顔を伏せた状態のあの黒瀬梓が立っている。もしかして、僕のことを覚えていたりするのか。確かに、あの日きっと最後に見た顔は僕の顔のはずだ。 ーヒラヒラ こっちに来てというように、手招きをする仕草を見せる。なぜだか僕は心拍数を上げていた。緊張して手に汗が浮き出てくる。そんなはずないとわかっているのに、期待をしている自分がいる。 「あ、あのどこへ…。」 敬語になってしまう。一応中学時代、クラスは違ったけど、同じ学年で教室の前ですれ違ったことくらい何度もあったんだ。それに、あの時だって一言だけだけど会話だってしたんだ。 「聞こえないのか。」 黒瀬梓は足を止めることなくそのまま、廊下の角を曲がると階段を駆け上がった。もともと運動神経の良かった彼女だ。耳が聞こえなくなって、運動部にはきっと入れないだろうが、その能力が下がったわけじゃない。 「屋上?」 屋上まで辿り着くと、黒瀬梓は突然振り返って、携帯電話を取り出した。確か学校で使用することは許可されていないはずだが、それでも文字を打つ手を止めない。打ち終えたのか、僕の方に振り返り、画面を突き出す。 ー私の耳が聞こえないこと、知ってるんでしょ? そこにはそう書かれていた。僕は戸惑いながらも、今更嘘をつく必要もないと思い、小さくうなずく。すると、今度はさっきよりも早く彼女は何かを打ち込んだ。 ーだったら、なんで私に関わろうとするの。 驚いて顔を見る。顔を伏せていても怒っているのが伝わってくる。なんで、怒っているんだ。僕は黒瀬梓の力になりたいと思っただけだったのに。そう口を開こうとしてつぐむ。 ー初対面のはずなのに、そこまでする理由がわからない。 やっぱり覚えてないか。あの最後の日も、最初の日も、僕にとって特別だったその日は彼女にとっては日常の一つでしかなくて、道端を歩いている人間の全員の顔を覚えているわけではないのと同じように、僕のことを覚えることのない彼女。僕は手に持っていたメモにスラスラと文字を書いた。 ー一緒に部活をしようと思って。 まずいことをしてしまったかもしれない。メモを手渡すと、黒瀬梓はそのままメモを持って走って教室に戻ってしまったのだ。もしかすると、もう彼女と話すことさえ、いや元からだ。話すことができないのは、ずっと前から変わらない。 「黒瀬ちゃんはどうだった?」 帰り道、僕を待っていたのか、偶然とは言い難い時間に帰ったはずなのに、遥にあってしまった。 「駄目そう。僕はもう諦めようかな。」 「昔からそうやってすぐ弱音をはくくせに、結局諦めないのが哲也でしょ!」 遥はそう言うと、少し先までスキップして言った。もう一度だけチャレンジしてみなよ、と。 最初は先輩の熱い部活への勧誘に戸惑っていた周りの生徒たちも、だんだんとあらゆる部に所属し始めた頃だった。黒瀬梓は僕の前に現れた。恐らくいつもは動くと危険だから座っているのだろうが、僕の元まで歩いてくると、メモをさっと机の上において、そのまま教室を出ていった。 ー一緒に部活をしようと思って。 このメモは前に僕が渡したメモだ。いや、前とは違う。下の方に小さな文字で、耳が聞こえなくてもできるんだったら、と書かれているのが見えた。 「やったああ!!!」 僕の歓声は意外にも教室に響いてしまったようで、白い目を浴びながら、僕は屋上に向かったのだった。やはり思ったとおり、黒瀬梓は屋上にいた。たまに教室からいなくなる時があるが、その時もきっと屋上に来ているのだろう。 ー何部なの? 僕に気づいたようで黒瀬梓は携帯電話の画面を前のように突き出してきた。僕も同様に、携帯電話に文芸部だよと打ち込んだ。 ー文芸って、小説を読んだり書いたりするやつ? ーそう。 言葉がなくても、そこには会話が生まれていた。現代っ子だからこそできた会話だった。文字を打つにも、消すにも簡単にできる機械が身近にある。 ーあのさ、面倒だからアドレス交換しよ、メールのが楽だよ… こうして今まで遠いと思っていたあの黒瀬梓のアドレスをいとも簡単に手に入れた僕は、文芸部の教室まで彼女を案内するのだった。 「いらっしゃーい!!」 教室にはすでに部員が全員揃っているようで、遥はまるで僕たちが来ることがわかっていたかのように、僕たちを歓迎した。 「話は聞いてるよ。」 みんな黒瀬梓が来ることを信じていたようで、すでに説明用のメモが用意されていた。これには黒瀬梓も驚いていたが、何もしらない生徒しかいない教室よりは生きやすいようで、少し表情が緩んでいるように見えた。 ーまず私が部長の桃井遥。哲也とは幼馴染なんだよ。 と遥が僕のことを指さしながら言う。黒瀬梓はだから文芸部だったのかというような目で僕を一瞬見てから、次の人のメモに視線をうつした。 ー私が副部長にして生徒会長の金沢結城です。以後よろしくお願いします。 遥の下についている生徒がまさかの、生徒会長という状況、今も続いているとは思わなかった。結城さんはいつも真面目だが、たまにおっちょこちょいな所があると、よく遥から話を聞かされていた。 ー私達3人は2年生。私は茶野真琴。生徒会書紀もやってる。 ー俺は緑山大樹。で、メモを持ってなかったから代わりに書いたが、こいつが青戸涼太。 黒瀬梓は焦ったような顔をしてから、ポケットから紙とペンを取り出した。そしてスラスラと文字を書き始める。しばらくすると、顔をあげて、そのメモをみんなに見せた。 ー自己紹介ありがとうございます。耳が聞こえないことは他の人には言わないでほしいです。あと、私は黒瀬梓です。これから文芸部としてよろしくお願いします。 黒瀬さん。まずはそこから呼び始めよう。僕は彼女の自己紹介を聞いて初めて、彼女と向き合うことができた気がした。 「で、哲也も自己紹介しなさいよ?別に部長が知ってるからって特別扱いはしないんだから。」 忘れていた。すっかり自分のことなんて考えていなかった。 ―僕は白河哲也です。 部活が始まるのは15時からと中々ルーズだった。終わる時間もはっきりしていなければ、日付だって決まってはいない。ただ来たい時に来たい人だけ来ればいいという遥の方針がそのルーズさを生んだのだ。それなのに、誰一人として一日も休むことなく、部室に訪れていた。 「やっほ〜。てっちゃん。」 「涼太。いきなり馴れ馴れしいなお前…。」 まだ部活にきはじめて数日しか経っていないが、青戸先輩は早速僕をあだ名で呼び始めている。緑山先輩はどうやら青戸先輩のツッコミ役のようで、二人はいつも一緒にいる。 「そうだよ。涼太はいっつも礼儀知らずなんだから。」 後もう一人二人に付きまとっていたのは茶野先輩だ。気が強い彼女はいつも緑山先輩と一緒にいつも青戸先輩をいじっている。 「あ!!黒瀬ちゃんいらっしゃーい!!」 ドアが開くなり、部長遥はその手をブンブンと振った。それに答えるように、黒瀬さんも小さく手を振り返している。教室では何のアクションも起こさないことでその存在感を必死に隠している黒瀬さんもここでは、気が楽そうで良かった。 「そういえば哲也。今日から黒瀬ちゃんと二人で小説書いてもらうよ!」 「え。」 ここは文芸部。小説を書いて読み合ってなんぼ。今までは部室内にあるほんを読んだりしてゆっくりと過ごしていたが、ついに書く時が来てしまった。僕はそういうところのセンスがまるでないから、不安でしかない。 「昔から哲也は不器用だもんね。だから、黒瀬ちゃんと二人で書きなさいっていってるのよ。」 遥は黒瀬さんに伝えるためにも、メモを書き始めている。黒瀬さんは何も知らないため、いつものように本を読んでいる。二人で一緒にか。もしそれが中学生の時にできていれば、こんな風に機会さえあれば、僕だって黒瀬さんだってこうはならなかったはず。そう思って、考えるのをやめた。僕と黒瀬さんは遠かった。機械があっても、僕はあの男には勝てなかっただろう。 ートントン 肩を叩かれて、メモを読んだらしい黒瀬さんは困ったような笑みを浮かべていた。 ー小説を書くのって初めてだけど、頑張ろうね。 彼女が手していたメモにはそう書かれていた。
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