神殺し

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神殺し

 嘶きが聞こえた。それは神の声だった。黒い鱗を持つ竜が、大空を泳ぐ様をエルダは見つめる。エルダの腕には、幾重もの鋭い竜の牙がとりつけられた鎖が巻かれていた。女にしては長身なその体を崖の上から空へと躍らせ、エルダは叫ぶ。  複雑に編み込まれた赤毛は青空と美しいコントラストを作り、空のように青い眼は、ひたと黒い竜へと向けられていた。  神殺しが始まる。  これからエルダは、神と恐れられる竜へと挑もうとしているのだ。それはエルダの民族にとって成人の証でもあり、神である竜に認められる儀式でもある。  普通なら、男が挑むそれに、女のエルダが挑むのには、それなりの理由があった。  族長である父の後を継ぐためだ。  そのために、エルダは女の身でありながら男よりも優れていることを示さねばならない。エルダは分厚い唇から咆哮を放ちながら、竜の背へと飛び乗っていた。驚いた竜が高く嘶く。エルダはその竜の首に鎖を巻き付ける。鎖に連なる竜の牙が竜の鱗を食い破り、竜の首を穿っていくのだ。  竜は複雑に動きながら、下降していく。そんな竜の背から降り飛ばされないよう、エルダは鎖にしがみつき、懸命に竜の背へと居座るのだ。  竜は谷底へと落ちていく。翠色の濁流が流れる川のもとへと。その川の中に竜とエルダは突入していた。 「すまないが、黒き民を率いるのはお前ではなく、甥のナリムになりそうだ。すまない、エルダ……」  高い巨木の上に築かれた小屋の中で、族長である父がエルダに首を垂れる。病に臥せっていてもその体には往年の逞しさが残り、エルダは父の体を見るたびに、ある種の畏れを感じていた。  そんな畏怖する父が、自分に頭を垂れている。エルダにとって、それは驚くべき光景だった。  なぜ、女の自分が黒き民を率いる族長になれるのかとエルダは疑問に思う。太古の昔から、この世を統べるのは神である竜を殺せる男たちであり、女はそれに付き従うものだとされていた。  例外と言ったら、エルダの母だ。  女の身でありながら神である竜を殺した母は、男を超える存在と捉えられ、病に倒れるまで黒き民を率いていた。  けれど、それはエルダの母が特別な戦士だったからできたことだ。確かにエルダは母と父から竜を狩る方法を教わってはいたが、それが集落の若者たちを超えるものだと思ったことはない。  それなのに、父は自分が族長になれないことを詫びている。 「なぜ謝るのです、父上? 私は女だ。そもそも、母上が特別なだけであって、女の身である私が、黒の民を率いることなどできましょうか?」  それを聞いたら、父が跡継ぎにと思っている甥のナリムは大笑いするだろう。彼は普段から竜の狩を懸命に学ぼうとしているエルダをあざ笑っている。それは、集落の男たちとて同じだ。そんな男たちの反感を買わないためにも、自分は族長になるべきではない。 「大変だ! ナリムが!!」  そのときだ。集落の男の一人が、入口に掲げた織物をたくし上げて入ってきたのは。  ぎょっとエルダは青い目を見開いて、彼を見つめる。成人した――竜を倒した証――として、竜の鱗の入れ墨を背中に施された屈強な男は、大きく眼を見開いて父を見つめていた。 「ナリムが竜に喰い殺された!! あいつは、神に認められなかったんだ! 族長にはなれない!」  男の言葉に、父は大きく眼を見開く。黒き民は、代々エルダの血筋に連なる者たちによっって治められてきた。その中でも、跡取りとしてふさわしいのは、甥のナリムと直系のエルダだけだ。その中で、もっとも相応しい男が神である竜に喰い殺された。その言葉に、父以上の驚きをもって、エルダは立ち上がっていた。 「それは! 我が血筋を神々である竜が拒んだということか!? 神々に認められていた私たちが!?」 「それは違うぞ、エルダ……」  厳かな父の声がエルダの耳朶を叩く。エルダは後方にいる父を見つめていた。 「神々は、もっと強いものを黒き民の後継としてお望みなのだ。男を超える存在としてお前の母が君臨したように、お前に黒き民が纏められるか試しているのだ」 「神々が私を試している?」  父の言葉に、エルダは大きく眼を見開いていた。その言葉に、すっと全身の血が沸き立って、俄かに興奮を覚える。  神は、男ではなく、エルダを思し召しなのだ。男に付き従うとされているはずの、女の自分を。従弟であるナリムの死は残念なことだ。けれど、これはすべて神の思し召し。自分たちを導く、竜たちの意思なのだ。  竜たちは言っている。  自分たちに挑みにこいと。その力を見せつけてみよと。  エルダは小屋の床を足で叩く。その振動に家は揺れ、父と男はびっくりした様子でエルダを見つめてきた。 「行こう! 神々のもとへ! もしそこで私が認められなかったとしたら、それは神々が別の長をお望みということだ! ならば、私はそうならないよう神々に認められよう! 私の力を、神々に見せつけよう!」  ぴしゃりと音がする。その音に、夢を見ていたエルダは眼を見開いていた。竜の歯のような鍾乳石が、幾重にも洞窟の天井にぶら下がって、寝ているエルダの視界に迫っている。軋む体を起き上がらせ、エルダは周囲を見回していた。  音は、鍾乳石から小雨のように水が降り注ぐ音だ。その小雨は、エルダの目の前にある水色に光る湖へと落ちていっては、湖面に波紋を作り出す。その波紋が広がる湖面の中心に、それはいた。  それは、首から血を流す黒い鱗を纏った女だった。女は背中から竜の翼を生やして、縦長の瞳孔が特徴的な金色の眼でエルダを見つめている。  それが、自分の仕留め損ねた神だとエルダは一瞬で悟った。さりとて、エルダは神である竜が人の形をとるなんて聞いたことがない。エルダを見て女が嗤う。歪められた口から鋭い牙が覗いて、ああ彼女はあの竜なのだとエルダは思った。 「この前、屠った奴と同じのがまた湧いて出た」  低い唸るような女の声を聴いて、エルダは怖気を覚える。それと同時に、彼女がナリムを亡き者にした竜だということをエルダは悟っていた。 「湧いて出た奴ではございません。ナリムは、あなた方に認められませんでしたが、立派な戦士となるべく育てられた子でした。黒き民の若者の中でも、美しい黒い肌と、逞しい肢体を持つ素晴らしい戦士でした」 「お前、あの雄に好意を寄せていたのか?」  女が嗤う。女の言葉に、エルダは大きく眼を見開いていた。自分がナリムと番になる。そう、周囲が淡い期待を抱いていたのはたしかだ。そうなるものだとエルダ自身が思っていたこともある。  けれど、ナリムはどうだろうか。彼の青い眼は、いつも冷たい視線をエルダに向けていた。女でありながら、ナリムよりも優れていると民のみんながエルダを褒め讃えたせいだ。  母がそうであったゆえに。 「わからない……。でも、少なくともナリムは、私のことを鬱陶しく思っていたよ」 「お前の名は、エルダ?」  「神よ、なぜ私の名を?」 「あの小僧が、エルダこいつを仕留めてくれと、最後の最後で叫んでいた」  女の言葉に、エルダは声を失う。あのナリムが、自分に後を託すなんて思ってもみなかったからだ。てっきり、自分への呪詛の言葉を吐いて、死んだとばかり思っていた。 「で、お前はどうしたい? できれば私は、お前たちの捧げものにはなりたくないのだが?」  金の眼を伏せ、女は困惑の眼差しをエルダに送る。 「あなた方は、私たちを試すためにいるのではないのか?」 「それはお前たちが勝手に決めた迷信だ。私たちはお前たちに崇められる存在になった覚えもなければ、お前たちの神話にあるように、お前たちを造った覚えもない。どうしてそんなことになっているのか、理解に悩むし、成人の儀が執り行われるたびに仲間を殺されるのもウンザリだ。だから、私が代表してお前たちと話をつけにきた」 「あなたたちが、私たちの神ではないというのか?」 「だから、なんでそういうことになっているんだ? 私たちはお前たちに崇められる存在ではない。ただそこにいて、増えているだけの動物だ。それをなぜ、お前たちは格上の存在として崇めているのだ? 意味が分からない」  女は不機嫌そうにエルダを睨みつける。エルダは黒き民の神話の中で、竜たちこそ自分たちを造った創造主だと教えられていた。それを、目の前の神である竜は易々と否定して見せたのだ。  私たちはただの動物である。エルダたち人と同じ、動物に過ぎないと。 「では、私たちはどうすればいいのだ。黒き民に伝わる教えが真でないとしたら、私たちは何のためにあなた方を殺してきたのか……」 「だから、私の仲間を殺すことをやめてくれないか? 私の夫は、お前によく似た女に屠られた。その遺体はお前たちの集落に運ばれて、捧げものとして神殿に飾られている。私にしてみれば、夫の遺体を弄ばれている行為に他ならない。本当に迷惑な話だ!」  そっと腹部に両手を充てながら、女はエルダを怒鳴りつける。女の言葉に、エルダは気が遠くなりそうになっていた。女の語るエルダによく似た人間とは、エルダの母その人だ。母が殺した竜の骨は、神である竜たちの捧げものとして、集落の中央にある神殿に祀られている。  たしかに、女の立場にしてみればエルダたちは大切な人を狩る天敵に過ぎない。それを神への挑戦だとエルダたちは信じて実行しているのだ。竜たちにとってこれ以上迷惑な話はないだろう。 「だから頼む。お前たちが私たちを狩り続けたせいで、私たちの同胞は残り少ない。集団でお前たちを狩りに行ったこともあるが、お前たちはそれを私たち竜が与えた試練だと思い込み、私たちの同胞をことごとく返り討ちにした……。お前たち人間の団結力は、私たち竜のそれをはるかに凌ぐものなのだよ。私たちはお前たちのことを、小さき人々と呼んで崇拝している。小さく寿命も短いお前たちは、集えばとてつもない力を発揮する。それは、私たちにとって古くから信仰の対象であり、畏怖すべき力だった。それなのになぜ、私たちが崇める小さき人々が、私たちを神として祀っているのだ。まったくもって、立場が逆だぞ」 「私たちが、神……。神である竜の神……」  女の言葉に、エルダの思考は暴走寸前だった。自分たちより美しい外見と、強い力を備えた竜が、よりにもよって小さく寿命も短い自分たち人間を神として崇めている。そんなことがあっていいのだろうか。  まったくもって、何が何だか分からない。竜の立場から見れば、強い団結力を持つ人間たちは恐るべき存在であり、人間たちから見れば、美しい外見と強い力を持つ竜は崇拝すべき存在となるのだ。  そうして、お互いがお互いを神として崇拝している。そんな奇妙なことが何百年、いや下手をすると何千年も続けられてきたということになるのだ。  そっと竜の女は金の眼を伏せ、言葉を続けた。 「夫が狩られたその日から、私はどうしたら自分の愛する人の亡骸を返してもらえるのか、神であるお前たちとどう交渉したらいいのか考え続けた。お前たちの言葉を覚えた。密かにお前たちの集落に赴き、お前たちの生活を調べた。そして、私たちがお前たちの神として崇められていることを知った! そのときの私の気持ちが分かるか! 私は亡き夫だけでなく、崇拝していた人間が、神でないことを知ったのだ。神としての人は、私の中で死んだのだ。お前たちの崇拝が、私の神を殺した! 信じていたものを失って、私はどうしていいのか考えあぐねている! それなのに、お前たちは私たち神と崇めることやめない! 私は一体どうしたらいい!!?」  女が叫ぶ。女の言葉に、エルダは唖然とすることしかできなかった。女の言葉が本当なら、竜は人間の神なのではないことになる。では、真の神はどこにいるのか。エルダたち人間を造り、教えとして神話を残した真の神はどこにいるというのだろうか。 「じゃあ、私たちの神はどこにる!?」 「知らん! そんなもの、自分たちで探せ! あ……」 「あ……」  女の言葉に、エルダはふと気がついたことがあった。それは、女も同じようだ。  たぶん、気が遠くなるほど遠い昔に、自分たちのルーツがどこにあるのか深く考えた者がいたのだろう。この世の生命は、ほぼすべて男と女の交わりを通じて、女の胎より生じる。  一人の女が存在するには、その女を生んだ女がいて、その女を生んだ女が存在し、そしてその女を生んだ女がまた過去にいて……。どこまで遡っていいのかわからないぐらいに、自分たちの血筋はずっと続いている。  その始まりを、過去の人々は神という存在に求めたのだ。では、神とはいかなる存在か。自分たちより優れているものに違いない。では、その優れているものたちは誰かということになる。  それが人にとっては竜であり、竜にとっては人だっただけの話なのだろう。 「なんという、こじつけだ……」 「なんて、適当な……」  呆れた様子で、竜の女が口を開く。それと同時に、エルダもまた呟いていた。  二人は顔を見合わせ、くすくすと笑い合う。その笑い声は大きく鍾乳洞に木霊し、弾けるような女たちの笑い声を周囲に拡散させていく。  笑い声が穏やかになると同時に、二人は笑顔を向け合っていた。二人の女の中に、もはやお互いが神だという認識はない。あるのは、種族の違う同性が側にいるだけという現実だけだ。  二人の中で神は死んだ。エルダの中で竜はもはや神ではなく、竜の女の中で人はもはや神ではない。  共通の考えを持つ女たちは、お互いに笑い合いながら側へと寄っていく。 「その……まずは、夫の遺体を返して欲しい……それから、私たちを狩ることをやめてくれ。私たちはお前たちの神ではない……」 「分かった。私が族長になった暁には、あなた方を神ではなく、尊敬する隣人として集落に迎え入れよう。その方が、あなたの中にいる赤子も育てやすいだろう。それが私たち人にできる、せめてもの償いだ」  エルダの言葉に、竜の女は驚いた様子で腹部に手をやっていた。 「なんでも分かるんだな、お前……」  金の眼を細め、竜の女が笑う。その微笑みを見て、彼女とはよき友人になれそうだとエルダは思った。  
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