燃えちゃった話

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燃えちゃった話

 帰ったら、自宅が燃えていた。正確には、借りていたアパートが全焼していた。鳴り響くサイレンと目に入る赤い車両。黒焦げで鉄筋しか残らない部屋の残骸。遣水の跡のように立ち上る湿気。  アパートの住人は、当然避難していた。夫の帰りを待つ主婦は、自らの荷物をいくつか持っていた。大切なものを持ち出せたのだろうか、羨ましい。わたしも、家にいたらありったけの品を持って出ただろう。お金とか、判子とか。  その隣には、下着姿の若い女もいた。近くの繁華街でキャバ嬢をしている人だ。警官に毛布を掛けられて、なおかつしきりに話を聞かれている。イライラしているのだろう。唐突に煙草をくわえた。しかし、険しい表情を見せた警官にあっさりと取り上げられていた。どうやら、彼女のニコチン中毒が出火原因であるようだった。その他の住人も、女を恨みの籠った目で見つめていた。だから、犯人に間違いない。 そのひとりであるわたしも、一心に穴のあくほど女を見ていた。しかし、こうしていても仕方がないことに気がつき、ずっしりと肩を落とした。 まず、前進のための一歩を踏み出そうじゃないか。 そう心に決めたわたしは、鞄からスマートフォンを取り出す。蜩の声を聞きながら、とりあえず、先ほどまで一緒だった恋人に電話を掛けた。 「ハル?」  寝ぼけた声がした。何か言う前に、わたしはさっさと畳みかける。 「あ、岸間(きしま)。悪いんだけどさ、もう一度会えないかな。とりあえず、うちを燃やした理由を教えてほしいんだけれども」  電話越しの彼は「いいよぉ」と間の抜けた返事をする。二人で話し合い、大学近くの喫茶店で珈琲でも飲むことにした。通帳も灰になったと言えば、彼が自ら馳走を名乗り出た。ついでに、夕飯まで奢ってくれるらしい。 いかんせん、大学にもろくにいかずバイト漬けの彼には、無駄に金があったのである。  定期を持ち歩いていたのは幸いだっただろう。なおかつ、ついひと月前に更新したばかりでもあった。少なくともあと半年、新学期までは電車賃に困ることもない。 ある意味、幸せ者である。  地上線で三十分揺られ、夕日が眩しい中、大学の最寄り駅に再度降り立つ。つい三時間ほど前に出ていったばかりだというのに、なんだかな。モヤモヤすることもあったが、改札前で立つ岸間を見て機嫌を直した。良い金蔓の登場である。  コンビニの自動扉。その脇に立つ彼は、基本的には仏頂面だった。しかし、人が出入りすると少しばかり表情が和らぐ。それは、店内から漏れるクーラーの冷気によって引き起こされる事象であった。  聞いてわかる通り、岸間という男は暑いのが苦手である。冬を好み、前世をペンギンと自称するような奴であった。(とはいえわたしは、あたたかい土地に住むペンギンをいくつか知っているのであるが) しかし、何を思うのか、岸間は一風変わった性格をしていた。例えばどんなに蒸した日でも襟付きの半そでシャツの下に必ず薄手のノースリーブを着るようなセンスを持ち、ジーンズをこよなく愛した。サンダルは履かず、くるぶしまでの靴下と安いスニーカーを必ずセットで履く。これが岸間の夏の定番スタイルだった。  もちろん今日だって同じで、黄色い生地をのぞかせながら淡いブルーのシャツを羽織り、紺のジーンズを身に着けている。靴下は白く、磨かれた黒色のスニーカーを履いている。 「暑そうだね」 わたしは深い意味もなく言った。スマートフォンに目を落としていた岸間の顔が上がる。そして、何やら羨ましそうにわたしを見る。それから、「涼しそうだね」と静かにつぶやく。 彼の言う通り、わたしは今日、ラフな格好をしていた。髪は高い位置で結っているから、首元はスース―風通しが良い。白いマキシワンピースをさらりと一枚着ているだけの服。着込んだ岸間からすれば、かなり布が少ない。裾は風で揺れて空気が入る。足元は裸足で、黄土色の、編み込まれたサンダルを履いている。つまり、全身の通気性は高い。 「羨ましい?」 「羨ましい」  気の抜けた声で言うし、顔も赤い。どうやら、岸間の限界が近いようだった。わたしたちはさっそく移動して、大学の近くにあるサルヴェという店に入った。カウンターでは、一組の男女がそろってパスタを啜っていた。どうやら、季節の品であるようだった。 胃袋が踊る。夕飯のメニューはすでに決定された。 「アイスコーヒーが二つ」 「バニラアイスも追加で」  奥の席でウエイターに注文する。岸間は机に突っ伏していた。 「うちの家具は、もっと熱い思いをしているんだけれどね」  お手拭きを握りしめて、わたしは皮肉る。岸間はがばっと顔を上げ、口を何やらパクパクさせた。しかし、とりあえずは何も言わないで、冷えたグラスを掴んだ。それを額に押し付けて、物理的に頭を冷やす。それから一言。 「ハルが燃えなきゃいいよ」 「やっぱり、知っていたんじゃん。それならさぁ、もっと事前になんとかしておいてよ。一式燃えて、住むところがないんだし……」 「でもあの場合、きちんと燃やしておかないと、後々もっと面倒なことに巻き込まれてしまうんだよ」  テーブルにコースターが置かれた。それから、背の高いグラスも載せられる。岸間の前には、真っ白なバニラアイスも置かれた。クッキーもささっている。 「パサパサするのやだ」  口を開けて待てば、一枚丸ごと押し込まれた。もちろんむせて、珈琲をがぶがぶ飲む羽目になった。 「うん、つまりね」 わたしを気にせず、岸間は話し出す。 「前に君の所へ行ったとき、洗濯を手伝っただろう?その時、お隣さんが布団を干していたんだ。それに真っ黒な穴がいくつか開いていたから、あぁ、寝たばこの常習犯なんだろうなぁって思ったわけ」 「だからと言って、特別警告してくれた訳じゃない。なんで?」  ストローから唇を離し、わたしは応戦する。わかっていたのなら、わたしに告げるなり、となりを注意するなりしてくれれば良かったものを。  あからさまに不機嫌になったものだから、さすがの岸間も焦ったらしい。垂れていた目がくっと上がり、瞳孔が少しばかり開いた。それから、目の前で両掌を振る。言い訳するように付け加えられた言葉もあった。 「そりゃあ、できることならしたかったさ。でも、言ったところで君は聞き流すじゃないか。もちろん、多少の注意はするだろうけれども、警戒心は長くは続かない。そもそも、いくら危ないと伝えても、君は引っ越しすらしてくれなかっただろう? ほら、前々から俺は言っていたぜ。あのアパートの火災報知器、壊れているって」 「安さの元だよ。手間をかけていないから、家賃もかからない。苦学生にはぴったりの物件だったの」 「だからと言って、所持品を燃やされてちゃ意味ないよ」 「黙れ」 「とにかく、君は言うことも聞かないし、お灸をすえるのが一番早いかなって思ったんだ。もちろん、この程度のことで命までとる必要はないからね。きちんとフォローはしていたさ」 「最近ほぼ毎日デートしているなって思っていたけれど……。日中に引き留めていたのは、これが理由?」 「うん。お隣さんが寝ているのって、多分日のあるうちじゃないかと思っていたから。夜のお仕事なのは知っていたし。ほら、明け方にガタガタいうの、たまに聞こえてきていたじゃん。あれで察しが付くよ。まぁ、すべては結果論に過ぎないんだけれどもね」  我が家に泊まると、岸間の目の下に隈ができる。これが原因か……。頭痛を感じながら、わたしは嘆息した。そして、せっせとスプーンを口に運ぶ岸間に問う。 「家が燃えるまで続けるつもりだったの?」 「もちろんさ。君の焼死体なんて見たくもない。恋人を危険から守るのは、当然の義務だろう」 「予言者か」 「まさか。ただの大学生だよ」
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