坂道の話

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坂道の話

「なぁ、紅茶でも飲まない?」  デートの最中、岸間が言った。一方通行の道に何故だかある、奇妙な信号待ちの間だった。ぼんやりと白黒の横縞を眺めていたわたしは「んん?」と間抜けな返事をして、きょろきょろとあたりを見まわした。隣にいたはずの恋人はいない。さっきまで、坂に停められた軽トラックを見ていたというのに、いつの間にか消えている。代わりに、横断歩道よりもかなり後ろの位置で仁王立ちしていた。  頭痛を押さえ、わたしは信号に背を向けた。 岸間は、観察力が高い。そのため、声を掛けた時点で、すでに自動販売機は発見しており、ちゃっかりと列に並んでいた。 「ハル、こっち」 「はいはい」  前にいた男性は、少し前に坂から降りてきた人だった。どうやら、ミルクたっぷりのカフェオレとブラックコーヒーの二択で迷っていたらしい。わたしが自販機に到着したころ、やっと心を決めたらしく、苦い真っ黒な飲み物を選択した。 「うわ、にがぁ……」  つぶやいた岸間に視線を送り、黙らせる。だが、選んだ本人も同感だったようで、屈んで商品を拾った際、たいそう渋い顔をしてみせた。どうやら、眠気覚ましで買ったらしかった。よくよく見れば、目の下に隈もある。 気持ちはわかる。暑さが退かず、熱帯夜が続くような日々であるのだ。もしかしたら彼は、寝不足なのかもしれない。それだったら、こちらを煩わしそうに睨むのにも説明が付く。なんせ、うちの恋人の喚き声は、かなり耳に響くから……。 「岸間、うるさい」  ベンチに座ろうだの、手をつなごうだの言ってくる岸間をあしらい、わたしは男に会釈した。騒がしい奴でごめんなさい。そんな心の声もこめておいた。 「はいはーい、何がいいかな?紅茶、珈琲、ココア、緑茶」 「カフェインしか紹介しないつもり?」 「一番のおすすめは、彼が買ったブラックコーヒーです」  ケタケタ笑いながら、しかも大声で岸間は言う。当たり前のことだが、話題となった男性は途中で足を止め、こちらを振り返る。ふらついた足取りで歩みもかなり遅いから、あまり距離も離れていない。 「ごめんなさい」  岸間の頭を掴み、強制的に下げさせる。わたしも一緒に礼をした。 「いえ……」  男は再び、フラフラと不安定な歩行を再開した。あの調子じゃ、車にたどり着くのも随分と先になるだろう。曲がった背を見送りながら、わたしは嘆息する。 「なぁなぁ、どうする? 暑いから、炭酸飲料でもいいぜ」 彼が去ってしまったから、他に客もいない。とはいえ、いくつか車は通るから、車内の人々には私たちの様子が丸見えなわけで。 うん、両腕を広げるなんて恥ずかしいね。自動販売機っていうのはね、あなたの私物じゃないんだよ。 頭の痛みはひどくなる一方だった。 「さっき、お昼ご飯を食べたばっかりじゃない。食後には熱い紅茶までついてきていた。わたしはもう、おなかがいっぱいだよ。この調子じゃ、夜ご飯はいらないかなぁ」  友人が安くて量のあるレストランを発見してきて、本日ランチ会を行うつもりだった。しかし、当の本人が夏風邪でダウンし、二か月かけて合わせた予定は中止になった。もちろん彼女を責めるはずもないのだが、予約をキャンセルするのもなんだかもったいない。ということで、下見を兼ねて、おそらく暇であろう岸間を誘った。 もちろん、従順な恋人である彼は、飛ぶようにしてやってきた。大嫌いな夏、残暑がたっぷり残った八月末日の昼。その呼び出しに応じてくれたのが実はうれしいだなんて、口にできるはずもない。その情けない心臓のお詫びとお礼もかねて、こちらがごちそうすると告げておいたはずなのだが、気が付いたら岸間に奢られていた。 立つ瀬がない。 だからこそ、こんな紅茶を飲もうなんていうささいなお願いくらい、きいてあげたいのはやまやまである。あるのだが、どうにも胃が重い。通常の食事はともかく、普段は別腹の糖分補給装置すら限界を訴えている。 下腹部に手を置いたのは無意識だった。しかし、わたしが自覚する前に、岸間の目に留まってしまった。彼は少しだけ目を瞬かせ、次いで、悪意を感じない素直な微笑みを見せてきた。 「あんなに喜んでもらえると、俺もうれしいよ。まぁ、気持ちはわかる。ランチBセット、ボリュームたっぷりだったもんなぁ。ハンバーグにサラダ、ガトーショコラ。メインのパンは食べ放題。10個は食べていたっけ……?」  もう一度言っておく。こいつに悪意はない。むしろ喜んでいる。 だが、デリカシーは皆無だ。わたしはそっと、背中に回した手のひらを握り込む。柔らかい肉に、爪が刺さった。 「女子の胃袋事情をベラベラ話さないでよ。……仕方がないじゃない、せっかくごちそうしてもらうんだもん。たくさん食べなきゃもったいないし、申し訳ない」 「無理はしなくていいんだよ。ほら、ウエストのボタン、かなり斜めになっているし。切れないと良いな」  彼が屈んで覗き込むのは、肉がたぷんと乗せられたスカートであった。シャツをインして履いていたのがまずかった。 でも、でも……。だって、ウエスト位置が高い仕様のスカートなんだもん。仕方がないじゃないか!
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