不知火 火事場にて

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不知火 火事場にて

元治元年 皐月 「前田屋で火事が起きたぞ!」 その一声で俺たち火消しの目の色が一斉に変わる。郷都の街が平和なのはええ事なんやけども、ちいたぁ俺たちが活躍する場がないとあかんやろ? 「久しぶりの大仕事やで!」 体の奥からふつふつと湧き上がる興奮に身を任せながら纏を掴み、現場へと全力で走る。前田屋はここからはそう遠くないところにある大店や。火の不始末だったんやろか、あの辺りで火事が起こってもうたら相当な被害になるんちゃうか。 そんなことを考えていると程なく現場についた。ゴォゴォと音を立て、黒煙を撒き散らしながら炎が当たりを焼き尽くしている。真っ赤な炎にゾクゾクしながらも風向きや火の広がりを確認する。 今日は風が強すぎる……こりゃあ向こう3軒はしめぇやな……少し離れた店の屋根に登り、纏を立てる。 屋根からやと視野が広くなるさかい、冷静に当たりを見回すことが出来る。 危ないってぇのに野次馬が大勢群がっとる姿や、店が燃えてもうて我を失い、愕然としている店主。泣き叫び、暴れる子供たち、微力ながらも力になりたいと必死の形相で井戸から汲んだ桶の水を炎へとかける奉公人……。 火はすべてを焼き尽くして楽しかった思い出も、大切な物も無くしてしまう。そんな恐ろしいもんやけどなにか惹かれるものがある。 すべて燃やし尽くしてしまえという思いと火消しとしての仕事をまっとうせなあかんという気持ちがせめぎ合う。 もう少しばかり周りの様子を眺めていると風で火の粉がぶわっと舞い上がった。 ……あかん、通行人の姉ちゃんの着物の袖に火が燃え移ってしもうた! 俺は纏を近くにいた仲間に預けると無我夢中になって姉ちゃんの元へ駆けつける。奉公人から桶を奪い取るようにして水をかけると程なくして火は鎮まった。 姉ちゃんはさっと向きを変えるとその場から立ち去ろうとする。それを引き留めようと先程まで燃えていた右腕の袖を掴んだ。まぁ、正確に言うと掴めへんかってんけどな。 「おい、姉ちゃん、大丈夫か?火傷は……っ」 そう、右腕が無かったんや。 幸いにも、と言っていいんか分からへんけど、体へ燃え移ったり火傷は免れたようやった。 俺が少し動揺の色を見せてしもうたのが気に触ったかもしれへん。姉ちゃんは鋭い目付きでキッと睨むと裏通りの方へと走っていってしもた。 不思議な姉ちゃんやなぁ。燃える炎のような瞳、緑の黒髪、それに一筋だけ瞳と同じ色をした髪を長く垂らしていた。 何や気になるなぁ…せめて名前を……いや、声だけでも聞きたいなぁ……。 そう思いながら立ち尽くしていたが組頭に大声で怒鳴られ、はっと我に返った。
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