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朱南 叉月 吉原にて
元治元年 弥生
「おい!ここに神子がいるぞ!」
「何だって?」
「吉原に神子が!」
「捕まえろ!」
「早く殺してしまえ!」
「いや、奉行所に知らせないと…!」
――しまった。酔っ払った客に強引に包帯を解かれ、痣を見られてしまった。
あの野郎、有り得ない声量で叫ぶもんだから周りの連中にも知れ渡ってしまったじゃないか。
今の今まで共に働き、「姉さん、姉さん」と慕ってくれていた子だってあたしの正体が露見した途端、軽蔑した眼差しでこちらを睨みつけている。
あたし達神子があんたに何をしたって言うんだい? いい加減にして欲しいもんだ。
そんな感傷は捨て置き、今はこの場から逃げ出すのが第一だ。
近くにいた数人の花魁をなぎ倒し、重い着物を脱ぎ捨てるようにして廊下を走り抜ける。確かこの奥に小さな個室があったはず……。
幸運なことにその部屋には誰も居なかった。ここから飛び降りてしまおうと窓枠に手をかけた刹那、ガツンという鈍い音が響き、あたしは意識を失った。
――ここは確か、店の裏手にあたる薪割りの場所だったはず。薪割りのための場所などというのは表向きの名前で、秋口に少しばかり使う程度だ。
ここは吉原から逃げ出そうとした花魁や逃げ込んできた犯罪者を捕まえ、なぶり殺すためにある、いわゆる処刑場のような所だった。
右腕を鎖で頑丈に巻かれ、ちょっとやそっとでは動かせそうにない。何とかならないものかな……と当たりを見回すものの、恐らく奉行所から役人を連れてこようとしている最中なのであろう、人っ子一人いないこの場所には鎖を断ち切れそうなものや鎖の鍵を壊せそうなものは何も無かった。
……いや、斧ならある。自分の中に閃いたただ一つの案に身を震わせたがあたしは今ここで死ぬわけにはいかない。動かせる両足と左手を駆使して斧を掴もうと必死で頑張る。
あと少し……あと少し……届いた。震える左手できゅっと自分の体を抱きしめる。生きるためには、そう、腕の一本くらい……。一思いに斧を右腕へと振りかざす。
血が勢いよく吹き出してきた。激しい痛みが右腕の付け根を襲う。頭が朦朧とする。
でもあたしは……あたしはここでくじけるわけにはいかない。
まだやらないといけないことが残っているのだから。唇を噛み締め、猛烈な痛みに耐えながらよろよろと歩き出した。
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