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帰宅後大福を作った八坂は、翌日も山を訪れていた。黙々と通い慣れた道を行く。登山客は少なく、また早めに正規の登山道から外れるため、人と行き合うことはほとんどない。
道を外れるときだけは、目撃されぬよう多少気を使っているが。
だから、どこからか人の声が聞こえたときには驚いた。
話し声ではない。人を呼ぶような声だ。聞こえる方へと歩を進める。声の主を発見した。ちょっとした崖の下に、若い男性がいたのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「すみません。足を滑らせてしまって。うまく登れないので、手を貸してもらえませんか?」
「もちろんです」
膝をつき、身をのり出して腕をのばす。
「ありがとうございます」
手が握られる。ひっぱりあげるため力を込めようとして、引きずりおとされた。
「え?」
頬を石で擦った。崖に足があたっていて、わずかにえびぞりになっている。肩から落ちたからか、変な負荷がかかったせいか、ひどく痛い。
八坂に、成人男性一人持ち上げられるだけの力はない。それでも、登ろうとする人の補助ぐらいはできる。うまくいかないにしても、落ちることなんてない。相手に、落とす気がなければ。
混乱したまま、八坂は身を起こす。男は八坂の手を握ったまま、笑顔を浮かべていた。
「あの」
男は、にこにこと笑っている。とても嬉しそうに。
「あの、手を」
離してほしい。そう言いたいのに、うまく声がでない。
「手」
「手が、どうかしました?」
「手……手を」
腕に力を込めるが、強く握られているせいで振りほどけない。
笑顔のまま、男が一歩距離をつめる。八坂の肩が跳ねる。そうして、気づいてしまった。いつの間にか男のもう片方の手に、むき出しのナイフが握られているのに。
恐怖が、身体を支配した。
「な……なん……」
何で。どうして。こんな状況に陥っているのか。この男が、これから何をしようとしているのか。
必死で辺りを見回す。
人なんて、いるはずがなかった。
登山道を外れて、大分たつ。こんなところを通るのは、八坂か道に迷った人ぐらいだ。この状況に気づく人も、助けを求められる人もいやしない。
八坂は男を見上げる。男はにこにこと笑っている。
すっとしゃがみ、男は八坂の顔をのぞきこむ。ナイフをピタリと八坂の頬にあてる。
「君の内蔵は、どんな色をしてるのかな?」
「……っ」
とっさに後ずさり、指先に何か硬い物が触れる。八坂はそれが何かを確認せずに男に投げつけた。
「うわっ」
手が離された。瞬間、八坂は背を向け立ち上がった。転びかけ、それでもどうにか体勢をととのえ走り出す。
男の声が後ろから聞こえる。追いかけてきている。
心臓がばくばくする。うまく呼吸ができない。急な斜面を、転げないように、それでもなるべく早く。
右の足首に、痛みを覚えた。転びかけたときに捻ったのだ。振り返る。男の姿が見えている。
せめて、お社に逃げ込めれば。
中に入ってしまえば、もう追い付けない。
けれど別方向に走り出してしまった自覚がある。方向を修正しようにも、八坂には今自分がどの辺りにいるのかわからなかった。
慣れた山ではある。けれどそれは、通い慣れた道があるということでしかない。もっと別の、奥の方であれば話は別だが、この辺りには明るくなかった。
ずきずきと、足が痛む。息がきれる。木に手をつく。膝が笑っている。
息をととのえようとしても、うまくいかない。距離を確かめようと振り返りかけ、後ろから抱きしめられた。
「つーかまーえた」
耳に吹き込まれた言葉。ぞっと鳥肌がたつ。めちゃくちゃに暴れるも、逃れられない。
「ちょっちょ、おとなしくして」
首筋にナイフをあてられ、八坂は動きを止める。まぶたを閉じ、必死に首をそらす。
「そう。いい子だね。大丈夫。怖くないから」
つ、つ、つ、とナイフが下へと移動していく。やがて、激しく上下する胸にたどり着く。
「今ここを開いたら、心臓の鼓動がよく見えるんだろうね」
「……っ」
ナイフはさらに下へと移動する。
「でもまずはやっぱりここかなぁ。ここからの方が開けやすそうだし」
そう言って男はナイフで八坂の腹をつつく。
「暴れちゃダメだよ?内蔵が傷つくから。大丈夫。内蔵が見たいだけで、命を奪おうってわけじゃないから」
うっとりとした声。
ナイフが服の裾をめくり、肌に触れる。八坂が身をこわばらせた。
そうして、男はナイフに力を込め、
「え?」
力を込めようとした瞬間、男の腕を誰かが掴んだ。
「な……誰だ」
「離せ」
八坂がまぶたを開く。その瞳にうつったのは、
「神、様?」
神様が、男の腕をつかんでいた。
あぁ、もう大丈夫だと安心した瞬間、八坂は脱力した。とっさのことに体重を支えきれず、男は八坂を離す。
八坂の拘束が解かれると、神様は男を突き放した。男が二歩三歩と後ろによろける。
「うせろ」
「なっ」
「うせろ、と言った」
これ以上言葉は重ねない。怒気を隠さず神様は男をにらむ。
山の空気が変質する。風もないのに、周囲の木々がざわめく。
「っ、くそっ」
何かがおかしいことを本能的に感じとり、男は脱兎のごとく逃げ出した。
男の姿が見えなくなってから、神様はゆっくりと息をはいた。同時に木々も静かになる。
神様が視線を向けると、八坂はボロボロと涙を流していた。
「悪かった。遅くなった」
ぶんぶんと八坂は首を横に振る。
「ごめっ、ごめんなさい」
「何がだよ」
「迷惑、かけた。手を、わずらわせた」
「お前のせいじゃねぇだろ」
「でも、だって」
呆れたように神様は息をはく。そうして、ほら、と八坂に背を向けしゃがみこんだ。
「足、捻ったろ。おぶされ」
「……ありが、とう」
首に回された腕は、まだガタガタと震えている。
「一度拾ってるからな。ほっとくわけにもいかねぇ」
「そんっ」
そんなことを言うなら、追い出さないでほしかった。
出かけた言葉を、八坂は飲み込む。
幼い頃神様に拾われ、しばらく育てられた八坂にとって、帰りたい場所は人の世でなくあのお社だ。人間なのだからと人里にやられても、当時は追い出されたとしか思えなかった。
今だって、理解はしているけれど納得できていない。
ぎゅっと、強く抱きつく。
「着くまでには、せめて泣き止めよ。他の奴らがうるさい」
「わかってる」
泣き止んだところで、ばれるに決まっているのだけれど。
「……さっきの奴は、二度と同じことしないように少しお灸を……あ?」
「神様?」
急に様子の変わった神様に、何事かと八坂は顔をあげる。
眉間に皺をよせた神様は、どこか一点を見つめていた。
「あー、いや。何でもねぇ。とにかく、あいつはもう大丈夫だ」
何事もなくはなさそうだ。けれど神様が大丈夫だというのならばそうなのだろう。
八坂は再び神様の肩に顔を埋める。山の、いい匂いがした。深く吸い込む。とても心落ち着く匂いだ。
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