筆力 fude-muscle《名》

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 翌日、流子は拓也を連れて北海道松前郡福島町に向かった。北にそびえるは秀峰大千軒岳。南は紺碧の津軽海峡に面し、海岸は奇岩・怪岸の絶景が続く岩部海岸を有する自然豊かな町である。第八十五代横綱・八千代ノ富士の生誕地で有名な町でもあった。  その自然豊かな福島町の山の一つが岩部岳だった。 「あなたの小説を私も拝読させていただきました」 「はあ……」 「力士が国際テロ組織に立ち向かうという、一見荒唐無稽な設定ではありますが、話の筋は通っています。機密データの奪取に成功した力士が山中に逃げ込んだーーと見せかけてテロリスト達をおびき寄せ、一人一人張り手を喰らわせたり、投げを決めたりして倒す展開は、相撲ファンでなくても胸を熱くするでしょう。国技館で力士が四股を踏んで終わるという締めくくりも素晴らしい」 「それはどうも」  一応礼を述べてから拓也は訊ねた。 「……それで、何故僕はこんな山中で二十キロはあろう重しを背負わされているのでしょうか」  トレーニング用の重力ベストを拓也は着せられていた。 「鍛えるためです。選評でも指摘されている通り、あなたの小説には圧倒的に筆力(fude-muscle)が足りません」  さらりと告げられた奇怪な単語に、拓也は眉を顰めた。 「ふで、ま……何ですか?」 「筆力(fude-muscle)です」  流子は至極真面目な顔で説明した。   筆力 fude-muscle《名》  筆を扱う力。筋力と同義。これが適切でないと筆を二つに折ったり、腱鞘炎を引き起こす。 「いや、ちょっと待ってください。何なんですかそのいかにも嘘くさい造語は!?」 「文筆家の常識です。フデマッスルも知らずに今まで小説を書いていたのですか?」  知るわけがない。だいたい『muscle』は直訳すれば『筋』であり『力』を意味するのは『power』。挙句『fude』はまんまローマ字読みで、英語ですらなかった 「あなたの小説からは執筆者の熱意も緊迫感も感じられません。小説内で国の命運を賭けた戦いを繰り広げるのであれば、あなたも死力を尽くして書かねば。主人公の力士が百キロ以上ある巨体で山中を駆け巡るのであれば、あなたも同等の体験をすべきです。それがリアリティであり、筆力(fude-muscle)です」  などと、もっともらしい言葉を並べても、大変うさんくさい『筆力(fude-muscle)』の単語が全てを打ち砕く。 「これから一週間、毎日その重しを背負って山中を駆けまわるのです。最終的には五十キロまで負荷を掛けます」 「ふざけないでください。いきなり飛行機に乗ってどこへ行くかと思えば」 「覚悟ができているのではなかったのですか? 絶対に負けたくないと言ったのは嘘ですか」 「そういう問題じゃないでしょう。そもそも筆力というのは表現技術や文章能力のことで、筋力とは無関係です」 「では尻尾を巻いて東京に帰りなさい。今でしたら五月場所の千秋楽には間に合うでしょう。あなたのお好きな火鵬関でも応援しなさい。もっともーー」  流子の目が意地の悪い色を帯びる。 「応援するファンがこのていたらくでは、火鵬関の実力もたかが知れていますね」 「なっ……な、な……っ」  あまりにも酷い暴言に拓也は一瞬、言葉を失った。 「火鵬は、火鵬は……怪我をおして出場し、昨日は関脇との大一番を制したというのに……それを、なんてことを! いくら姉さんとはいえ、言っていいことと悪いことがあります!」 「あら、私は本当のことを申し上げているだけですわ」  流子は容赦なく責め立てた。 「あなたのような口先だけで努力をしようともしない根性なしに応援されるような火鵬関は弱っちい力士ですわ。今場所で幕下に落ちるでしょうね」 「くっ……っ!」 「違うと言うのであれば根性をお見せなさい。まずは山頂を目指します」  ハッキリ言って火鵬関の実力とファンの根性や筋力は全く関係がないのだが、推しの関取を侮辱された拓也の頭からはそんな単純明快な理屈ですらすっこ抜けていた。  さらに火鵬関は、今場所は既に勝ち越しを決めているので、仮に残り三日間負け続けたとしても幕内にとどまるのは確定している。しかし、これまた怒りに燃える拓也の頭からはそんな基本的な大相撲の規定もすっこ抜けていた。 「僕が山頂を制覇したら、火鵬への侮辱発言を撤回していただきますからね!」  大相撲への熱い想いを胸に、拓也は登山を開始した。
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