蛇神殺し編

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 常柱大学のキャンパスがある地方中枢都市から、真鈴の故郷の伊富岐村まで、車で約二時間の距離がある。電車は通っておらず、交通手段は自家用車か、隔日一本の高速バスのみだ。高速バスの停留所から、真鈴の実家まで、車で更に三十分ほどかかる。  タクシーは前日までに予約しておく必要がある上に、やはり車で三十分以上先の町からやってくるので、迎車料金が実家までの片道以上にかかってしまう。帰省の予定は綿密に組む必要があった。  高速バスを降りて、下道に続く階段の前に、人間一人がやっと通れる大きさのフェンスに取り付けられた扉を潜り抜けるとき、不思議の国の世界に迷い込むアリスの気持ちになる。そして踏み込んだ先のワンダーランドには、粉雪が舞っていた。  季節が冬の奥へ進むと、伊富岐村のある唐沢盆地には、季節風に吹かれて、激しい雪が舞い込む。この雪は、ある頃から真鈴を憂鬱な気持ちにさせるようになった。  その雪は、真鈴にある人物の訪れを予感させる。毎年この寒さになるまでは、真鈴にとって幼馴染とは、たった一人――石田和樹(いしだかずき)のことを指す。新緑を地中深くに隠した地面に空から雪が降るのと時を同じくして、もう一人の幼馴染――荒川陶也は彼らの人生に登場するのだ。そして、春の雪解けと共に幻のように消えていく。  真鈴から数週間遅れて伊富岐村に帰省した和樹は、クリスマスの朝、窓の外が白銀に染まっているのを見て、子供のように飛び跳ねた。寒いから窓を閉めてくれと頼みに行ったところで、和樹にぐっと腕を掴まれて足が雪を踏む。 「久しぶりだね、和樹」  陶也は微笑んでいた。彼を見つけた和樹の横顔にも、満面の笑みが浮かんでいた。真鈴だけがまた今年も一体どんな気持ちで彼と顔を合わせればいいかわからず、黙ったままでいた。 「真鈴も、しばらくぶりだね」  陶也は真鈴の姿を見つけると目を細めた。雪景色に溶け込んでしまいそうなほど、白く柔らかな笑みだった。 「去年ぶりだ」  真鈴と和樹の吐く息は白い。陶也はまだ粉雪の舞う空の下、あの日唐沢の山中に姿を消したときのままの姿で佇んでいる。 「入りなよ」  和樹が招いて、陶也は一年ぶりに彼の家の敷居を跨いだ。  荒川家は、陶也と彼の祖母の二人暮らしだった。陶也の父親は不明で、母親は十六の頃に彼を祖母に預けたきり帰らない。陶也の祖母は戦争で両親と兄弟を失くし、大陸から引き揚げるとき、婚約者とも散り散りになった。そのとき腹の中にいたのが陶也の母だ。  他に身寄りのない二人暮らしだっただけに、陶也が失踪したときの祖母の落胆は凄まじかった。真鈴と和樹は陶也の家に遊びにいくたび、実の孫と同じように可愛がってもらっていたので、彼女のことが心配になって、十年の月日が経った今でも、こうして年末や盆の休みは泊りにくることにしているのだ。大晦日ともなれば、真鈴と和樹の家族も酒やおせち料理を抱えてやってきて、荒川家はにぎやかな年越しを迎える。  しかしまだ、そのときまでは一週間もある。「仕事納め、今年は早いんだから、せめて金曜の夜からでいいだろ」と真鈴は説得したのだが、和樹はクリスマスまでには帰ると言って聞かなかった。  院生の真鈴は、早々に冬休みを迎えて実家に帰省しているので、そこから歩いてすぐの荒川家に二十四日から泊まり込むことなどわけないが、東京で就職している和樹は、車で何時間も山道を飛ばして、滞在時間五時間ほどで、次の日には会社に戻るのだ。それを仕事納めの日まで、長いときは4日も5日も繰り返す。今年からフレックスのある部署になったからずっと楽なんだと、和樹はあっけらかんとして笑う。糠に釘を打つようなこのやり取りも、最早毎年恒例のものとなった。 「それにそろそろ雪の降りそうな気配があるから」  そう言われてしまうと真鈴は毎年何も言えなくなるのだった。
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