蛇神殺し編

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 あっと小さく悲鳴をあげただけで、バランスを崩さずに済んだのはほとんど奇跡だと言っていい。滝つぼだと思って見ていたものは滝つぼではなかった。これは巣だ。轟音をあげて流れ落ちる滝は陽光を受けて捻じれ、とぐろを巻いている。それを真鈴はずっと水の渦だと思って見てきたが、大蛇と思って見てしまえば、それは紛れもなく水色の大蛇だった。 「どうして、こんなところに」  それだけ口にするのが精いっぱいだった。幽霊の陶也と毎冬を過ごすようになって、これ以上この世の摩訶不思議に驚かされることもないだろうと思っていたが、目の前にあるのはそれよりもなお信じがたい光景だった。何より驚愕させられるのは、ほんの数秒前まで、自分にはこれがただの滝つぼに見えていたということだ。 「こんなところにも何も、これは生まれたときからずっとここにいるんだよ。ここに滝があったことなんて一度もないんだ。流れる水──に見えるのも全部これの尾っぽ。これの全身は山全体に横たわっている。むしろ山より先に蛇があって、その上に土が埃のように降り積もって山になったんじゃないかと思うくらいだよ」 「あれは何なんだ」  ただの蛇でないことだけはわかる。 「蛇だよ。僕の体を食らった蛇だ」 「あれに食われて死んだのか?」  蛇の頭は見えなかった。地上から覗き得るのは、ぐるぐると丸まっている尾だけだ。 「そこが違っているんだ、真鈴。僕は死んでない。僕はあの蛇の体内でまだ息をしているんだよ。蛇は雪を合図に眠る。冬眠の間だけ、僕は外に出られるんだ。魂だけがあの蛇のうろこをすり抜けられるものだからね」  真鈴はもう一度身を乗り出して轟音を立てて流れ落ちる滝、その水流の辿り着くところを覗いた。木々の隙間から僅かに射す木漏れ日を受けて輝く半透明の鱗はいっそ神秘的と言っていいほどに美しかった。 「蛇神様」  陶也は吐息を風に乗せるようにして、そっと呟いた。 「そう呼ぶ人もいるね。麓の神社も、元はこれを祀るために造られたものだ」 「神様……?」  その単語から連想されるのは、真鈴にとっては一つ、神成教授だった。 「そう、神様だよ。だからあれを望む人にとっては、必ずしも悪いものではないんだ」  真鈴は陶也に向き直り、「どういう意味だよ」と訊いた。  陶也はまさにこの世のものとは思えない美しい笑みを浮かべていた。何も知らずにこれが天使だと言われていたら信じていただろう。 「真鈴が何を願っているか知っているよ」  全てを見透かした目で真鈴を見る。少なくとも生きていた頃は、陶也はこんな目で自分を見たことはなかったはずだ。幼い頃からあの日まで、陶也と一体どんな風に話していたか、真鈴は次第に思い出せなくなっている。記憶はあっても、それが目の前の陶也と同じだという実感がないのだ。  きっとそのせいだ。そのせいに違いない。
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