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第一章 異国から来た
その男は、港町ボルドーに現れた。
大きな袖の付いた布のような服を身体に巻き、腰には太いベルトを着けている。上半身からそのまま繋がっている服の下半分は、巻きスカートのように脚を覆っていて、いかにも動きづらそうだった。そんな服装なのにもかかわらず、顎より少し上で切り揃えている煉瓦色の髪に縁取られた顔は、涼やかで飄々としていた。
男が周囲を見渡す。周囲には不思議そうな目で彼を見る、シャツにズボン姿の男や、長いスカートを穿いた女がいる。
手に持った布の袋を揺らしながら、男は一軒の店に目を留めた。その店の看板には宿屋とある。
「よし、そこの宿で良いか」
そう呟いて、男は宿屋へと入っていく。その様を、街の人々は不思議そうな顔で見ていた。みな、あの様ないでたちの者を見るのははじめてだったからだ。
宿に入った男は、カウンターにいる店主に声を掛ける。
「しばらくここに泊まりたいんだけど、部屋は空いてるかな?」
そう言う男のことを、店主は訝しげな目で見る。こんな奇矯な姿をした男を不審な人物だと思ったのだろう。男はそれを察してか、大きな袖の中から財布を出し、その中から金貨を一枚抜いて店主に見せる。
「これで何泊できる?」
それを見た店主は面食らった顔をして男にぺこぺこと頭を下げて答える。
「はい、当店でしたら金貨一枚で一、二週間はご宿泊いただけます」
「なるほどね。
それで、部屋は空いてる?」
「勿論でございます。ご案内致しますので、宿帳にサインをよろしくお願いします」
既に泊める気になっている主人を見て男は機嫌良さそうに微笑む。しかし、主人が出した宿帳を見て、なにやら考える素振りを見せた。宿帳の上に視線を滑らせ、手に取ったペンを手の上で回してから店主に言う。
「実は僕はこの国の文字を書けなくてね。
ご主人が代筆してくれないかな」
「代筆でございますか? 勿論でございます。お任せ下さい」
男は主人にペンを渡し、ペン先にインクを付ける主人に名前を名乗る。
「僕の名前はオモイカネだよ」
「オモイカネ様でございますね」
店主はオモイカネの名を聞いて不思議そうな顔をする。それを見たオモイカネは、この国では珍しい名前なのだろうなと察する。主人がペンを走らせ自分の名前を書き込んだのを確認し、オモイカネは頷く。それから、主人がいそいそとカウンターから鍵を取りだしオモイカネを部屋へと案内するという。いささか浮き足立っている主人に付いていく。階段を上り、広いとは言えない廊下を歩く。部屋の数は多くはない。廊下の片側に四部屋ほど並んでいるだけだ。ドアの作りはしっかりしているし手入れもしっかりされている。けれども上等と言えるものではないようだった。
「こちらのお部屋になります」
主人がドアを開けてからオモイカネに鍵を手渡す。オモイカネは軽くお礼を言ってから部屋の中へと入った。部屋の中には服をかけるのであろうクローゼットと若干大きめに見えるベッド、それに小さなテーブルとそこに据えられた椅子がある。ベッドの側の壁には、通りに面した窓が付いている。
オモイカネは手に持っていた袋をベッドの上に放り投げ、窓に手を掛けて外を見る。
「悪くない」
きっとこの部屋はこの宿の中でも上等な方なのだろう。この部屋に案内される道すがらで、夕食はこの宿でも用意出来ると主人は言っていたけれども、今日の所はそれを断った。折角見知らぬ異国に来たのだ、どうせなら地元の酒場で一杯やりながら地元の人が食べる物をつまみたい。
そこでふと思う。この辺りで良い酒場はどこだろう。ベッドに腰掛けたまま少し考えて、すぐに考えるよりは行ってみた方が良いだろうと結論を出して、オモイカネは袖の中に財布が入っているのを確認し、その部屋を出た。
街の中に鐘の音が響く。おそらく夕刻を告げる鐘だろう。道を歩いていると、通り過ぎる家々からは美味しそうな匂いが流れてきて、楽しそうな話し声も聞こえる。どこの国でも食事時はこの様な物なのだろうかとしみじみ思う。
気の向くままに街中を歩いていると、賑やかな店が目に付いた。おそらく酒場だろう。オモイカネは開け放たれたドアから中を覗き込む。近所の人々とおぼしき集団が、賑やかに、楽しそうに酒を飲んでいた。
あれだけ楽しそうに飲む人々がいる店だから、味もそこそこだろうと判断したオモイカネは、店の中に入り適当な席に着く。テーブルの上に置かれたメニューを見ると、どうやらチョリソーとフライドポテトが看板メニューな様だった。
つまみはそれを頼むとして、酒はどうしよう。そう思い周りをぐるりと見渡す。すると、車輪の付いた椅子に座った男を取り囲んで笑い声を上げ、何度も乾杯をしている一団が目に入った。彼らが飲んでいるのは、なにやら泡立っている酒と、柘榴色の酒。あれがこの辺りで飲まれている酒かとオモイカネは察する。
ふと、あの一団が車椅子に座った男に口々に声を掛ける。
「誕生日おめでとう!」
どうやら、彼の誕生祝いで騒いでいるようだった。それに気づいたオモイカネは気まぐれで車椅子の彼に声を掛ける。
「僕からも、誕生日おめでとう」
それを聞いてか車椅子の彼は驚いたような顔をしたけれども、オモイカネをさっと頭の天辺からつま先まで見てから、にっこりと笑ってこう返した。
「ありがとうございます。
それにしても、すてきなキモノをお召しですね」
それを聞いてオモイカネは内心驚く。自分が着ている服をこの国の人間が知っているとは思っていなかったのだ。
「お褒めにあずかり感謝」
そう言って手を振り、改めてどの酒を頼むか決めるために、メニューに目をやった。
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