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朝食
休日の朝。
徹夜で実験を終わらせて、研究室から家に帰ると……。
俺のベッドは、久美子に占領されていた。
恋人の久美子は、俺より六つも年下だ。
大学院に通う俺と、学部学生の――大学二年目の――久美子とは、本来ならば知り合う機会もなかったはずだが。
俺が昨年、後輩の宮田――院生になっても律儀にサークルに顔を出していた男――と部屋で酒を飲んだことから、巡り巡って、こうなった。
あの日、あろうことか宮田は、人見知りの俺の部屋に、見知らぬ女性を三人も連れてきたのだ!
宮田にしてみれば「サークルの後輩だから仲間」ということらしいが……。もうサークル活動を卒業していた俺にとっては、彼女たちは完全に赤の他人。
「知らない女性と酒を飲む。これではまるで、世に言う合コンではないか」
当然ながら俺は、合コンに参加するようなタイプではない。いきなり気が滅入ったのだが、意外や意外、これが何とも楽しかった。
「でも、サークルには行ってないのに、サークルの女の子たちとは楽しく遊ぶって、悪い先輩だよね?」
そんな罪悪感を、翌日、抱くほどだった。
だから久しぶりに、サークルに顔を出すようになった。
すると、頼れる先輩として、後輩たちから慕われた。
いや間違っても俺は「頼りになる」タイプではない。でもサークル活動にしろ大学生活にしろ、後輩たちよりは経験豊富だったからね。そう見えたらしい。
特に、一人の女の子――あの日部屋に来た三人ではないが彼女らと同学年――から、とても懐かれた。
若い女の子から好意を向けられて、俺も悪い気はせず……。
結果、久美子と付き合い始めたのが、今から四ヶ月前のこと。
今では久美子は、俺の部屋に入り浸るようになっている。俺の部屋で暮らしている、と言っても構わないくらいだ。
久美子の部屋より俺のところの方が大学に近いし、付き合い始めた証として合鍵も渡してあるからだった。
おそらくこれが、一人暮らしの大学生にありがちな、半同棲というやつなのだろう。
そうした生活に対する憧れは俺にもあったので、現在の状況に何の不満もなかった。
俺の専門は実験系なので、休日でも「ちょっとだけ作業のために研究室へ」なんてことが結構ある。
でも今日一日は、研究室には一切行く必要はない。そのために、徹夜で作業を終わらせてきたのだ。
最近、せっかく久美子が部屋にいても、すれ違いの日々が多かったのだが……。
ゆっくり休むなり、ゆっくり遊ぶなり。「とにかく今日は久美子と過ごす」というのが、俺の本日の予定だった。
今。
その久美子は、幸せそうな寝顔を見せている。
どんな夢を見ているのか知らないが、起こすのは可哀想だ。
俺は徹夜明けとはいえ、研究室で少しは仮眠をとっていた。俺の分野では、実験といってもずっと作業しっぱなしではなく、待ち時間――反応が進む間は放置――が結構あるのだ。
だから「眠くて眠くて仕方がない!」という状態ではないのだが、久美子が眠っているのに俺だけ起きているのも馬鹿らしい。
俺も隣で一緒に眠ろう。
そう思って、そっと掛け布団をめくったところ。
久美子が、パチリと目を開けた。
「おはよう、久美子」
俺が声をかけると、久美子は、寝ぼけ眼に笑みを浮かべて。
黙って両手を伸ばしてきた。
まるで「抱っこ!」とでも言いたげな仕草だ。
彼女を抱き起こそうと近づくと、久美子の方から、俺の首に腕を回してきた。
そして、その勢いのまま、唇を重ねてくる。
起きたばかりと徹夜明けの二人だから、普通に口臭もあるだろうが、恋人同士だから気にならない。
「……ん」
俺もそうだが、彼女もキスというものが大好きだ。
どちらからともなく半開きになる唇に、どちらからともなく舌を入れる。
自然に絡まる、互いの舌と舌。
おはようの挨拶にしては濃厚な、いわゆるディープキス。
でも、二人の間では日常茶飯事となってしまった行為。
最初の頃のようなドキドキ感もなく、ロマンティックとは程遠いキスだが、そこは男と女。たとえ流れ作業であっても、肉体的には、気持ちが盛り上がって……。
しばらくの時間経過の後。
朝のシャワーから俺が戻ると、久美子は、部屋着ではなく少し余所行きの服に着替えていた。
「朝食は、スパゲッティにしましょう」
「ん? パスタの買い置き、あったっけ?」
わざとからかうように、そう俺は言ってみる。久美子の意図は、なんとなくわかっていたのだが。
「かー君の意地悪。外食よ、外食!」
「ああ、うん。『サードハウス』へ行こうか」
なんだかんだで、もう昼に近い時間帯だ。近所のお店――パスタとケーキが美味しいという『サードハウス』――も、そろそろ開店している頃だろう。
部屋を出た俺たちは、手を繋いで歩く。いわゆる恋人繋ぎだが、付き合い始めた頃――というより付き合い始める直前――は、もっとギュッと密着する雰囲気だったので、これでも大人しくなったと感じる。
「……あれ?」
久美子の呟きに、あらためて彼女の顔に視線を向けると。
その頬に、不自然な水滴が一つ。
何だろう、と思うまもなく。
ポツリ、ポツリと、俺の頭や肩にも雨が落ちてきた。
「降ってきちゃったな」
傘を取りに帰るべきか。そう思いながら、空を見上げる。
まだ本降りという感じではない。小雨だから、しばらくの間は、傘なしでも大丈夫そうだが……。
「そういえば、天気予報なんてチェックしてなかったわね。そろそろ梅雨の時期なのに」
確かに、久美子の言う通りだ。いつ雨が降ってきても、おかしくないシーズンだった。
そう考えると同時に。
「梅雨か……」
俺の頭の中には、全く違うイメージが浮かんでいた。
その少し後。
テーブルを挟んで座る久美子は、仏頂面になっていた。
彼女を鼓舞するかのように、俺は、努めて明るく言う。
「やっぱり美味いな、ここの麺は」
「そうだけど……」
久美子も、同意はしてくれる。
俺と同じく、定番メニューのざるそばをすすりながら。
「……でも、私たち『サードハウス』へ行くはずだったのよね? なんで『蕎麦の小山』にいるのかしら?」
ここは「学生でもリーズナブルな値段で本格的な手打ち蕎麦が楽しめる」という評判のお店。
あの時『梅雨』という言葉から、つゆに浸して食べる『蕎麦』を連想したので……。
俺は急遽、行く先を変更したのだった。
「久美子だって、文句は言わなかったじゃん」
一応『サードハウス』より『蕎麦の小山』の方が近い、という理屈もあった。雨が本格的に降りそうなら、より近場の方が良いはずだ。どうせスパゲッティも蕎麦も、どちらも麺類だし。
まあ、そこまで久美子には説明しなかったが……。
黙って俺に従ったのだがら、彼女も理解してくれている。そう俺は解釈したのだった。
「かー君って、思ったより勝手なところ、あるのよねえ」
今頃になって言う久美子を見ていると、『思ったより勝手な』という言葉が心に引っ掛かって、ふと考えてしまう。
俺は中学も高校も男子校だったせいか、大学に入ったばかりの頃は、女性と喋るだけで緊張していた。
やがて普通に接することが出来るようになってからは、人並み程度に、恋愛も経験するようになった。
それでも。
誰と付き合っても、三ヶ月くらいで別れることになってしまう。
久美子とは、その『三ヶ月』ラインを越えたので大丈夫かと思ったが……。
これまで色々な女性から何度も聞かされた、あの言葉。「こんな人だとは思わなかった」とか「もう気持ちが冷めてしまった」とか、俺にとっては呪詛のようなセリフ。
それが久美子の口から出る日も近いのだろう。そんな嫌な予感と共に、俺は蕎麦を飲み込むのだった。
(「梅雨だから」完)
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