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私の名は瀬斗口盛男、四十八歳。働き盛りで脂の乗り切った男だ。
大手電子機器メーカーで営業職の仕事をしている。二十五年以上ものキャリアと実績があるので、今では営業部長の役職に就いている。
そう、私は世間一般的に言えば、威厳ある理想的な大人の男である。
「あの、瀬斗口部長」と部下の男性社員に突然後ろから声を掛けられた。今は朝の会議が終わり、自分のデスクに戻る前にトイレに行こうとしているところだった。
「何だ?」と私は返事をした。
「A社のオンライン・データ管理システム工事の見積もりの件なのですが、悪いご報告が……」と男性社員は恐縮している。
「言ってみろ」
「もう一社の方から提出されている見積書が、我が社の見積もりよりも三割も安い価格で提出されたとの話を先方より受けました。それで先方は、我が社の方にもそれより安く価格を下げろと……」と男性社員は困惑している様子だ。
我が社のオンライン・データ管理システムの性能は、全世界の電子機器メーカーのそれら全てを凌駕している。絶対にシステムの性能では負けない。しかし想定の範囲内だが、価格で勝負されると我が社はどうしても不利になってしまう。
(三割も安くか……)
相手は確実に赤字を覚悟で、否応でもA社との取引を繋げようと勝負に出ている。これは確かにピンチだ。
しかしそんなことより私は今、また別の危機に瀕している。
尻の割れ目の中が、超絶に痒い!
そろそろ、我慢の限界に来ている。尻の割れ目の中を激しく掻きむしりたい。ウォシュレットの水の温度を最大にまで上げ、尚且つ最大出力で尻の割れ目を激しく洗浄したい。
そもそも会議の終盤辺りからこの痒みの発作は起き始めていた。やっとのことで会議は無事に終わり、私は急いでトイレに直行しているところだったのだ。
これは何かの病気ではない。病院に行って医者に診てもらったのだが、何も問題は無かった。とりあえずその時に痒み止めの塗り薬を貰ったのだが、全く効果がなかった。そして未だこの尻の割れ目の痒みの原因は不明なのだ。
「とりあえず利率を一割下げて見積書を出し直しなさい。あとアフター・ケアも三百六十五日の二十四時間体制でトラブル対応するというオプションも付けるんだ。我が社の製品の性能は絶対にどこにも負けない。その情熱をぶつけて先方を説得するのだ。君ならできる!」と私は男性社員に親指を立てて笑顔を送った。すると男性社員の表情は明るくなった。
「了解しました! すぐに取り掛かります! では、失礼します!」とその男性社員は頭を下げると急ぎ足で私の前から去って行った。
よし、これでトイレに行ける。私は急ぎ足でオフィスと同じ階にある男子トイレへと向かった。そして男子トイレに入ると、早速個室の空き状況を目視で確認した。
何と! こんな時に限って個室が全て使用中じゃないか!
私は絶望した。しかし諦めるのはまだ早い。他の階にも男子トイレはあるじゃないか。
ビルは二十階建てで、私が勤務するオフィスは十八階に位置している。他の階を当たれば必ず空いた個室のある男子トイレが見つかるはずだ。しかし他のどの階に男子トイレがあるのかはさすがに把握はしていない。
(どうする?)
私は自問自答した。すると次の瞬間、一つの閃きが私の脳裏を過ぎった。
一階のロビーに来客用のトイレがあるじゃないか。
(そこだ! そこに行けば最後の希望がある!)
私は早速エレベーターの方へと急いで向かった。しかし走るのは禁物だ。いい年下した大の大人が、会社の廊下を走るなど言語道断。いかなる状況下においても大人の男というのは、常に余裕ある風格を周りの者たちに見せなければならない。
私はあえて涼しげな表情を作りつつ、エレベーターのフロアへと向かった。
フロアに到着。そしてエレベーターの所在を目視で確認する。
何と! こんな時に限ってエレベーターが二機とも一番下の階にあるじゃないか!
(よりによって一階ロビーと地下駐車場か……)
どちらか一方のエレベーターが現在いる十八階フロアに到着するのは、短く見積もっても三分ぐらいはかかるだろう。三分は長い。さすがの私でも、それだけの長い時間涼しげな表情を保ちつつエレベーターを待ち続けられる自信は無い。
こうなれば仕方がない。一階フロアまで歩いて下りることにしよう。私はエレベーターのすぐ横脇にある非常階段の入り口の扉を開けて入った。当然に非常階段には人はいない。
私はテレビでよく見る競歩のフォームを想像しながら非常階段を急いで下へと下った。十八階から一階までの距離は、体力的に五十前の男の肉体にはさすがに厳しい。
しかし悪いことばかりではない。激しく歩く動作をすることにより、左右両側の尻の筋肉が大きく上下運動する。それに伴い、左右両側の尻の割れ目の皮膚が互いに擦れ合う。それが多少なりとも痒みの苦痛を和らげてくれる。
だがしかし、それで痒みが治まるわけではない。その上、左右両側の尻の割れ目の皮膚が擦れれば擦れるほどに痒みの度合いは増していく。急がねばならない。私は苦痛解放への希望を胸に、一階ロビーの来客用の男子トイレを目指した。
そして一階ロビーへ到着。幸いにも広いロビーにはあまり人はいなようだ。私はホッと胸を撫で下ろした。では早速男子トイレを目指そう。
一階のトイレは来客用ということもあり、私が普段使用している十八階のトイレとは天と地ほどの性能の差がある。
一階にある来客用トイレのウォシュレットは、最大五十度まで水温を上昇させることができるのだ。その上、最大出力は十八階のそれの倍以上。
私は過去に一度だけそのトイレで最大温度並びに最大出力の洗浄を試みたことがあるのだが、あまりの衝撃に、その時私は思わず声を上げてしまったのだ。
だがしかし、私は今から再びそれを試そうと思っている。すでに一度経験しているのだ。免疫はできている。
さあ、男子トイレへ急ごう。私にとって、この世の全てがそこにある。
「あの、瀬斗口部長」と突然、若い女性の声が聞こえてきた。私は思わず振り向いた。振り向いた先には、受付嬢の佐伯真実がいた。
彼女は頭が良く清楚で、何より二十三歳と若くて美しい。それ故に我が社では男性職員たちの間では一番人気の女性職員だ。男なら何人たりとも一度廊下で彼女とすれ違おうものならば、絶対に振り向いて彼女の姿を確認してしまうほどだ。そんな佐伯真実が私に声を掛けてきた。
「やあ、おはよう」と私は彼女に笑顔を送った。
「おはようございます瀬斗口部長、あの私……」と彼女は少しはにかみながら笑顔を送り返してきてくれた。そして何かを言い掛けたような気がする。
「どうしたんだい?」と私は再び笑顔を送った。
「あの、仕事でまたご相談したいことがあるのですが……、今日のお昼休みにランチをまたご一緒してもよろしいですか?」と彼女。
この会社の男ならば、誰もが喜ぶべき彼女のお誘い。私は妻子ある身ではあるのだが、断る理由は無い。会社で一番人気の女性職員が私を慕いランチに誘ってきてくれている。乗るに決まっているだろう。
だがしかし、私は今、彼女と悠長に話をしている場合ではない。この上なく尻の割れ目の中がどうしようもなく痒いのだ。急がねばならない。男子トイレの個室に急がねばならない。今こうしている間にも、知らない誰かに男子トイレの個室を一つまた一つと占領されているかもしれないのだから。
「オーケー、分かった。今日の昼休みだね? 後でラインするよ。ちょっと今急いでいるからこれで失礼するね。じゃあ後で」
「はい! ありがとうございます! それでは楽しみにしてますね!」と彼女は瞳をときめかせた。
そんな彼女の笑顔が何とも美しくそして可愛らしく思える。彼女のその笑顔に最高の笑顔を返してあげたい。だがしかし、私は今どうしようもなく尻の割れ目の中が痒いのだ。今の私には余裕がない。
(佐伯君、すまない……)
故に、私は美しく可愛らしい佐伯真実の笑顔を無視して、一階ロビーの男子トイレへと急いだのだった。
一階ロビー、来客用男子トイレに到着。現在、幸いにも私と同じ空間には何人たりとも人間は存在していない。私は一目散に一番奥の個室に入り占領した。
目の前には、最新鋭のウォーター・クローゼット・システム。そして最新鋭のウォシュレット・システム。現代の最先端のテクノロジーの全てがそこには結集されている。
私の尻の割れ目の皮膚はもはや限界を迎えていた。両側の皮膚が痒すぎて、各々に踊りを踊っているような錯覚さえ覚える。
まずはフォーマル・スーツの上着を脱ぎ扉のフックに掛けなければならない。その作業は比較的容易い。掛けた。
次にスラックスのベルトを外し、スラックスを下ろさなければならない。急いでいるからか、ベルトの金具がなかなか外れてはくれない。尻の割れ目の痒みが疼く中、それが何とももどかしい。悪戦苦闘の末、やっとベルトは外れてくれた。そしてスラックスを下ろす。
最後はボクサーパンツを下ろし、便座に腰かけるだけだ。その作業は刹那の如く速やかに完了した。
そして私はすぐさま便座に腰かけた。便座のウォーマーのぬくもりが私の尻を快く歓迎してくれた。
最後はボタン操作だ。この任務さえ遂行させれば、苦痛の全てから解放される。私は思わず武者震いしてしまった。手の震えが止まらない。
私は右手の震えを抑えながら、温度調節の上矢印のボタンを強く押さえ続けた。生憎と長押しタイプの調節のようで、温度調節のランプは五十度のメモリまでゆっくりと上昇していく。私は焦る気持ちを必死に抑えた。
そして次に出力調節ボタン。これも同じく長押し調節ボタンのようだ。私は激しい痒みにジッと耐えながら、出力調節ボタンを強く押さえ続けた。耐え過ぎたせいか、一筋のあぶら汗が私の額を伝った。
最大温度並びに最大出力、調節完了。システム・コンディション、オールグリーン。いよいよだ。あとは発射ボタンを押せば全ての苦痛から解放される。
私は静かに目を閉じ、ゆっくりと発射ボタンに手を伸ばした。
(パイルダー! オン!)
幼き日に見たあのロボットアニメの名台詞を心の中で強く唱えた。そして右手の親指に全魂を込めて運命のボタンを強く押した。
次の瞬間、強烈な熱を帯びた衝撃波の一撃が、激しい痒みに支配された私の尻の割れ目の真ん中に激突した。その瞬間、私を苦しめていた全ての苦痛が弾け飛ぶ。そして何とも言いようのないカタルシスが私の全身を駆け巡った。
「エーックセレーンット!」
そして私はそう叫んでいた。心の奥底から溢れ出る嘘の無い歓喜の言葉を。
気が付けば私は何も無い真っ白な世界にいた。そこは開放感と幸福感しか存在しない極楽浄土の世界。そして優しげにフェードインして流れてくるビートルズのイエローサブマリンの旋律。
それからしばらくの間、私は燃え尽きてしまったのか便座から立ち上がることができなかった。もう、全てがどうでもいい。私は心の許す限り魂に侵食してくる開放感と幸福感にその身を委ねたのだった。
正気を取り戻してから、私はゆっくりと個室の扉を開けた。すると個室の前に一人の老人がたっていた。その老人は心配そうに私の顔を見つめている。
「社長……」
私は驚きのあまり、その場で茫然と立ち尽くしてしまった。
「瀬斗口君、叫び声が聞こえてきたからどうしたものかと思って心配したよ……。君、大丈夫かね?」と彼はそう尋ねてきた。
快感のあまり、つい外に声が漏れてしまったようだ。それをしかも社長に聞かれてしまったとは、何とも恥ずかしい。
この場をどうにか誤魔化さなければならない。会社のトイレの個室で、責任ある立場の私がウォシュレットの温水を股に当てて悦に浸っていたなどと知られてしまえば、それこそ私の今後の社内での信用問題にまで発展してしまう。
(どうすればいい? 考えろ! 瀬斗口盛男!)
私は自らの脳内コンピューターの回路をフルスロットルで回転させた。そして覚悟を決めた。
「いや、先週末に買った証券の価格なんですがね、今日になって急激に高騰したものですからつい興奮してしまって……」と私は苦笑いをしつつ、申し訳ない態度を社長に見せた。そして「お騒がせしてしまって、どうもすみません……」と深々と頭を下げた。
嘘はついていない。事実、私は先週株を購入して今朝になって急激に価格が高騰したのをネットで確認したのだ。しかしその時私はそれほど興奮はしなかった。むしろ気味が悪いので、現在価格の急落に向けて警戒しているほどだ。しかし質問への返しは的確だったようだ。信用もそれほど落ちはしないだろう。
「瀬斗口君、気持ちは分かるぞ。私も先週その株を買って今朝新聞で状況を確認したところだ」と社長は呆れた顔をしている。
「だがね、いい大人が会社内で大声を出してはいけない。分かるね?」
「はい、申し訳ありません……」
「あと、株を嗜む者の先輩として忠告しておく。常に安心はせず警戒は怠るな。そして安易な判断ははするなよ。分かったな?」
「はい、肝に命じます……」と私はひたすら頭を下げ続けた。
「よろしい。今後も励みなさい」と社長は私の前から去って行った。
危機を脱し、何とかことなきを得た。
私の名は瀬斗口盛男。大手電子機器メーカー・花形営業部の部長である。世間一般的に言えば、誰もが羨むイケてる大人の男である。
だがしかし、突発性の尻の割れ目の痒みの発作が起こる限り、私はずっとそれに振り回され苦悩し続けるであろう。
ああ、私の尻に平穏あれ。
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