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兄は、番の契約を一方的に解消した。いや、父によって強制的に解消させられたのだ。
彼等の父は激昂していた。けれど、対応は迅速で、抜かりがなかった。兄に番の契約を破棄させ、弟には整形手術を受けさせて、首筋に残る歯形を隠した。
番を失うことは、Ωの彼に大きな苦痛を与えた。一度結ばれた番の契約は、永遠の誓いであり、彼は兄以外とは番になることは叶わない。それでいて、再び発情期を伴う雌になってしまった。生殖行為が可能である適齢期を過ぎるまでは、彼は、火照った身体をもて余すことになる。
父は、弟の苦痛より、世間体を気にした。彼をβ性と偽らせたまま、学生生活を継続させようとしたのだ。
彼が中学生の頃は自宅から通わせ、兄には高校の学生寮で生活させた。彼が高校生に成ると、兄のときと同じように学生寮に放り込んだ。兄は高校を卒業して、有名大学の医学部に進学して家を出ていった。
αである兄の未来は光輝くように眩しく、父の病院を継ぐことを約束されている。番を失った弟は、明日すら見えないというのに。
そんな心身ともに傷だらけのΩの彼は、見違えるように麗しい少年に成長していた。彼は名前までも美しかった。
神崎 薫。
身長は男性平均の168㎝で、少しユニセックスな雰囲気があった。切れ長の瞳に、幸の薄い唇。左目の下にある泣き黒子のせいか、どこか陰鬱で、儚げな色香を纏っている。
彼をβ性と誤認した医師を、誰が責められるだろうか。彼はΩにしては、立派な逸物を持っていたし、睾丸も正常に機能した。ただ、吐き出される精液には子種が存在していなかった。子宮は小さく、子を宿せるのかも怪しかった。
彼は番を持つことができない傷物であり、子を孕むことができない欠陥品であった。
そんな彼を、αとβしかいない学生寮で住まわせるのは、狼の群れに羊を投げ込むようなリスクを伴う。けれど、父はそのような選択をした。穢らわしいΩの男を視界に入れたくなかったのだろう。
父は、Ωの女を妻に持ちながら、Ωの男には酷く嫌悪を示す男だった。母は薫に同情的であったが、父の前では非力な女性だった。
番を失ったΩが取るべき行動は限られている。彼は、まずは自分の身を守る術を思案した。抑制剤は定期的に実家から送られてくるが、それでは、不測の事態には心許ない。
彼は、同室のβの男に目をつけた。16歳にしては成熟したβの男は、頼もしく見えた。薫より5㎝は高く、陸上部の彼は、体つきも逞しかった。いつも穏やかな笑顔が張り付いていて、βの割りに端整な顔立の男だった。薫は、目の前のβを誘惑して、自分の身を守る盾にしようと考えた。
αは論外だった。彼等は盾ではなく、薫を貫く剣だ。薫がヒートしたときには、彼等は獣化して、Ωを凌辱することしか考えられなくなるような、そんな野蛮な生き物だ。どんなに慈愛に満ちた顔をしていても、或いは理性的な澄ました顔をしていても、彼等は獣でしかない。彼が一番、その事を理解していた。
βであれば、多少は理性が利くだろう。それに、Ωに対する、どこか薄暗い優越感を刺激してやれば、扱いやすいのでないかと考えた。更に言えば、抑制剤で抑えきれない性欲も、同室であれば満たしやすい。とても合理的な決断だと思った。
「なあ、お前にだけ、俺の秘密を教えてやるよ、」
Ωの独特の色香に充てられて、或いは、二人だけの秘密を仄めかされて、βの彼は呆気ないほど簡単に、陥落した。
憐れなβの男は、河島隼人という名だった。
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