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陸上部の練習が終わり、半分の部員は帰宅して、半分の部員は帰寮した。隼人は部屋の扉の前で、小さく息を吐いた。
薫の違反を副寮長に告げ口をしたからと言って、薫は隼人を責めたりはしないだろう。それでも、教員たちに、たっぷり絞られたであろう薫と顔を会わせるのが気まずかった。
薫は上手く言い訳できただろうか。
もう寮から脱け出したりしないだろうか。
結城博己は、簡単に呼びつけられない薫のことを面倒になって手を引くだろうか。
河島隼人は太陽のような男である。けれど、神崎薫と出会ってから、隼人の輝くような暖かな光は、時折、陰りを見せる。薫に恋い焦がれれば焦がれるほどに、隼人の太陽は光を失い、自己嫌悪に苛まれる。
隼人は、軽く首を横に振って、遠慮がちに部屋の扉を開いた。けれど、そこには同室者の気配はない。部屋には明かりがついておらず、隼人のベッドの上には、スウェットが脱ぎ散らかされていた。部屋の中は、今朝のまま何一つ変わっていない。
薫は、とっくに帰寮して、いつも通りディスクで勉強でもしているものだと思い込んでいた隼人は、夕暮れの橙色が差し込む部屋の中で、しばらく立ち尽くしていた。
グラウンドの隅で、こちらに微笑んで手を振っていた薫は、幻だったのだろうか。
隼人は自身のスマホを手に取ると薫に電話をかけた。
ブーンブーンとバイブ音が、薫のディスクの辺りから鳴り響き、びくりと肩を揺らした。隼人が通話を諦めると、薫のディスクの上のスマホも所有者の呼び出しを諦めた。
隼人は無力だった。
成す術もなく、ベッドに腰かけて、ただ薫の帰りを待つことしかできなかった。昨夜、薫を抱き締めて眠った感覚は、既に朧気で、微かに部屋の中に残る甘い匂いが隼人の胸を締め付ける。
今もまだ、あの暴君の元にいるのだろうか。
時間は刻々と過ぎ行き、夕飯の時間になっても薫が帰ってくることはなかった。
夕日が沈み、夜が訪れる。
また点呼の時間がやってくる。隼人は1人きりで、20時の点呼に応えなければならなかった。
「神崎は、まだ帰ってきていません、」
隼人の縋るような眼差しに、眠たげな寮長と眼鏡をかけた副寮長は顔を見合わせた。
「えーっと、神崎は、自宅に帰ったと聞いているが。」
寮長は頭をかいて、苦笑いした。
隼人は、小さく息を飲んだ。
「体調を崩したとかで、明日まで自宅で静養するそうだ。」
「……そう、ですか、」
事務的に伝達を済ます副寮長に、隼人は訝しげに眉を曇らせた。
隼人には到底信じられなかった。
昨夜、隼人を誘ってきた薫、
深夜、博己の元に向かった薫、
夕刻、微笑んで手を振っていた薫、
きっと、あの暴君が何かしたに違いない。
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