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薫は、感情に任せるままに一頻り泣き尽くした。そうして、少しずつ冷静さを取り戻し始めると、ここに居てはいけない、と頭の中で警告音が鳴り始める。
一体、どのぐらい眠っていたのだろうか。なぜ、兄が学園にやって来たのだろうか。
考えても仕方のないことが浮かんでは消える。じっとしていることも出来ずに、ベッドから脱け出すと大きな窓に手をついて、外を眺めた。
何階の部屋なのかは不明であったが、空の広さと周辺のビル群を見下ろす景観に、ぞっとする。
天空の檻に閉じ込められたような錯覚に眩暈を起こしそうになった。薫はコツンと額を窓に押し付けて、溜め息を吐いた。神崎薫はいつでも檻の中に囚われている。
「風邪引くぞ、」
肩口に手を添えられて、薫はびくりと肩を震わせた。両肩にかけられたのは、少しサイズの大きな白いYシャツだった。
「俺の服は?」
薫が見上げると、響は苦笑いを溢していた。響の瞳には、薫の涙に腫れた目元が痛々しく映り込む。
「シャツは血がついていたから捨てた。パーカーとズボンは洗濯中。」
薫は眉を曇らせて、俯いた。響は軽くポンポンと弟の頭を撫でて、優しい声色で語りかける。
「雑炊できたけど、食べれるか?」
薫は小さく頷いた。
ダイニングは一人暮らしにしては無意味に広く、最低限のインテリアが小綺麗に整っている。生活感の薄い作り物のような部屋は、まるで家主の性格がそのまま表れているようであった。
「そこ、座ってろよ。」
薫は、言われるままに椅子に腰かける。目の前に置かれたのは、小さな一人前用の土鍋だった。
響が土鍋の蓋を取ると、中から白い湯気が立ち上ぼり、グツグツと煮えた白米と卵の香りが広がった。ぐぅと腹の虫が鳴り、薫は気まずそうに、薄い腹を撫でる。思えば、薫は丸1日以上は食事を口にしていなかった。
響は、弟の様子に静かに微笑むと、茶碗に雑炊を盛り付けて、薫に手渡した。
「ありがとう」
薫は素っ気なく受け取ると、レンゲで雑炊を掬った。ふーふーと息を吹きかけて冷まし、レンゲを口に含んだ。
「……ッ」
冷めきらない雑炊が熱くて、薫はびくんと肩を震わせると、思わずレンゲを落としてしまう。涙目で、近くのグラスを掴むと、水で舌先を冷やした。
「相変わらず猫舌なんだな、」
対面の椅子に腰かけて、ふっと目を細めて笑う男は、兄らしい顔をしている。薫はその顔を見て、漸く強張った身体の力を緩めて、安堵の息を吐いた。
「兄さん、料理なんてできたんだ、」
「まあ、これを料理っていうならな、」
可笑しそうに笑う兄に、薫は遠慮がちに微笑んだ。優しい味付けの卵雑炊を口にすれば、母親に風邪のときに作ってもらった記憶が甦る。
薫は枯れたはずの涙が溢れそうになる。幸せな神崎家の思い出は、既に遠くて、霞がかかっていた。
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