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物心がついた頃から、薫は響の背中を追って過ごしてきた。聡明で慈愛に満ちた響のことを、薫は自慢の兄として慕っていた。
不幸な事故で番の契約を交わした際に、穏やかな兄の、内に秘めた獣の牙に襲われた薫は、更に兄を畏れた。
一方的に契約を解消され、二度と会うことを許されなかったとしても、薫の中から「兄」という存在を消し去ることは、容易なことではない。
神崎薫が、神崎響の部屋に軟禁されてから、4日目が過ぎようとしていた。いや「軟禁」という言葉には、些か語弊があるかも知れない。
「怪我が治るまでは、この部屋で静養するべきだ」という響の言葉に、薫は縛られているに過ぎないからだ。更に「勝手に外出してはならない」と加えて言いつけられれば、内側から簡単に開く玄関のドアに、触れることすらできないでいる。
薫は、ただ漫然と寝室のベッドの上で、面白くもないテレビを見ながら日中を過ごした。退屈を持て余して、じっと膝を抱えていると、沸々と不安感が募っていく。時間の経過と共に、ゆっくりと破滅に向かって歩みを進めているのに、薫には自身の運命を止める術を見いだせないでいた。
響の元で、長く過ごせば過ごすほどに、父に勘づかれる可能性は大きくなり、それは、薫の未来を閉ざすことを意味する。
けれど、響の言いつけを破って勝手に学園に戻ったところで、結果は同じになるだろう。
薫は、どうにか響に許しを得て、学園に戻らなければならない。例え、博己に再び苛まれたとしても、薫にはそれしか道はないように思えた。
結城博己。
博己のことを想うと、薫は胸の奥が締め付けられる。地下室を去っていく博己の後ろ姿が、薫の脳裏に焼き付いていた。博己に、捨てられてしまったのだろうか。それを確かめる術は、この部屋にはなかった。
河島隼人。
深夜に部屋を抜け出したまま帰寮しない薫のことを、隼人は心配しているだろうか。それとも、呆れ果てて見放してしまうだろうか。それを確かめる術も、この部屋にはなかった。
薫は抱えた膝に顔を埋めると、深く重苦しい溜め息を吐いた。
何もすることがない部屋ではあったが、窓の外が紅く染まる頃には、薫は夕飯の支度を始める。
薫はあまり料理は得意ではない。それでも、それ以外にはできることが見つけられず、冷蔵庫にあるもので、見よう見まねで、それらしい食事を用意する。
響の帰宅を出迎えると、兄弟二人きりで食卓を囲んだ。薫の手料理は、あまり美味しいとは言えなかったが、響は「美味しい」と少しばかり大袈裟に誉めてくれた。
薫は嬉しそうに微笑んだ。自尊心がないに等しい薫にとって、響に誉められることは、照れ臭くも喜ばしことであったし、こんな自分にも何かの役に立っていると思えると、ほんの僅かに、自分が存在してもいいのだと思えたのだ。
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