第10幕 ~Ωの生存本能~

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 父によって、兄弟の番の契約を破棄させられてから、響と薫は、二度と会うことがないように無理やり引き離された。  それで、二人の兄弟の燃えるような不実の恋慕は、凍りつき、砕け散ったはずであった。響は薫を愛くるしい実弟であることを思い出し、薫は響を畏敬の実兄であることを思い出した。  けれど、響の心には、未だに番の破片が刺さっていた。成人を迎えたばかりの響が、他のΩを神崎の妻として迎え入れ、新たな番の契約を交わすことは、もう少し先の約束事である。だからこそ、現段階で、唯一の番である薫のことを完全に白紙にしてしまうことは不可能であった。  例えば、他の女が擦り寄ってきて、愛の言葉を囁き合うようなときに、薫に向けた情熱を思い出した。  例えば、他の女と肌を合わせて物足りなさを感じたときに、薫の肉体が恋しくなった。  きっと、Ωである薫は、αである自身よりも、ずっと番の契約に縛られて、さぞかし苦痛の日々を過ごしていることだろう。番である自身を求めて、泣きながら悲嘆に暮れていることだろう。  響はそのように、他に番を持つことができない薫を、甚く憐れんでいた。  けれど、高校生になった薫は、他の男と関係を持ち、母にアフターピルの手配を頼んだ。自らが薫の元を訪ねれば、薫は響に怯えるように顔を背け、「兄さん」と呼んだ。それは、思いの外、響の胸の奥を抉っていた。  B棟の一室に足を踏み入れると、響は口元を手で覆った。男子高校生の部屋らしく、ツンと尖った男の臭いと微かに甘い香りが混ざり合っている。部屋の間取りは、想定以上に狭く窮屈で、一瞬、言葉を失った。  自らがA棟の寮生だった頃と比べると、β性の彼等の境遇は、あまりに不憫なものである。 「夜分に訪ねて悪かったな。B棟が相部屋とは思わなかったんだ、」 「……いえ、」  その境遇を当たり前のように受け入れているβの少年の出前、響は顔には出さずに微笑みを浮かべたまま、薫のベッドにスーツケースを寝かせた。  隼人は、手持ち無沙汰で対面のベッドに腰かけ、突然の来訪者の動作を見守った。  響の動きには無駄がない。薫のクローゼットを開き、数少ない衣服を取り出すと、一枚、一枚、畳み直しながら、空のスーツケースに隙間なく詰め込んでいく。 「あの、全部、持って帰るんですか?」 「……そうだな、しばらく寮に戻ることはないだろうから、」  薫の欠片が、少しずつ取り上げられていくようで、隼人の胸はざわつた。隼人の恨めしい視線など気にした様子もなく、響はクローゼットの中身が空になると、今度は薫のディスクの中身を片付け始める。 「薫はそんなに悪いんですか?」 「…………ああ、まあな、」  響は弟の同室者の少年が話しかけてくることに、些か億劫そうに返事をしながら、教科書や参考書を学生鞄に詰め込んで、荷物をまとめていった。  薫のディスクの一番下の引き出しを開けると、一際大きな箱が目についた。響はしゃがみこむと、蓋をそっと持ち上げる。  響は、箱の中身を目にすると、薄く笑みを浮かべたのだった。  一見すると、ガラクタが詰め込まれた箱であったが、響にはどれも見覚えのあるガラクタであった。くしゃくしゃになった写真には、高校生の頃の響が映っている。  Ωには、番の見つけるモノを集める「巣作り」という習性がある。  薫は、発情期が近づけば、響の匂いを求めて、実兄の物を集めて、心を落ち着かせていた。宝物のように仕舞われている響の制服やマグカップや万年筆は、薫からの求愛の証である。  響は安堵した。  薫は、なんて慎ましくて健気なのだろう。  やはり自分は、薫の唯一の番であったのだ。
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