第10幕 ~Ωの生存本能~

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 薫に何があったのだろうか。  神崎薫は結城博己の元に囚われていると思い込んでいた隼人は、目の前の男の存在に困惑していた。それでも、薫のディスクの前でしゃがみこんでいる男は、唯一、薫の所在を知る人物である。  薫の兄に、どこか軽くあしらわれている気配を感じながらも、隼人は、なんとか薫の情報を1つでも得ようと対話を試みようとしていた。 「薫は、神崎病院に入院しているんですよね。俺、お見舞いに、」 「……学校にも伝えてあるけど、見舞いは遠慮してくれるかな。」  響は、番の愛に浸っていたところを、横から水を差され、不快そうに眉を曇らせた。  薫の宝箱の蓋を閉めて、ディスクの上に置くと、隣に無造作に放置されているスマホを手に取った。電源を入れてみるが、充電が切れているのか、起動しても、直ぐに眠ってしまう。  このスマホの中には、薫を傷つけた狼の情報が入っているに違いない。  響は真っ暗な画面を眺めながら、どのように、この電子機器を処理しようか思考を巡らせる。 「あの、薫に、伝言は頼めますか、」  響は、うんざりとした気分で、βの少年に振り返った。けれど、隼人の縋るような眼差しに、響は1つの可能性を垣間見る。  響はベッドに片膝を乗せて隼人の顎に手を添えた。 「失礼。口を開けてもらえる?」 「え、」  乾いた唇を指でなぞられて、隼人はびくりと肩を揺らした。 「ほら、」  薫と同じ目元の男に、至近距離で見つめられて、隼人は背筋がぞくりと痺れる。抗えない威圧感に、おずおずと唇を開けば、長い指が口の中に差し込まれて、隼人は目を見開いた。  響の指が上の歯の列をゆっくりとなぞり、そのまま下の歯をなぞっていく。隼人の犬歯は、βの少年らしく「牙」というには、短すぎた。 「もういいよ。ありがとう。」 「あ、あの、」  響は僅かな可能性を1つ潰すと、隼人から離れて、ウェットティッシュで手を拭った。  薫を貪るように噛みついた狼は、少なくとも同室のβではない。  隼人は、響の奇行に訳も解らず、動揺を隠せない。 「河島くん、薫は誰かにいじめられていた様子はなかったかな?」 「……いじめ、ですか、」  隼人は不意打ちに、ぴくっと眉を動かした。「結城博己」の名前が頭に浮かんで、口を開きかけるが、直ぐに口を噤んだ。 「何か知ってるなら教えてくれないかな?」  響は威圧感を込めて、薄く微笑む。薫が受けた仕打ちは「いじめ」などと生易しいものではなく「暴力」と「凌辱」である。薬剤まで使われ、限界まで身体を弄ばれた薫は、満身創痍で憔悴しきっていた。  それでも、同室の彼が、薫の何をどこまで知っているか判断がつかない響は、探るように言葉を選んだ。そして、河島隼人は何かを知っていると確信する。 「すみません、」  隼人は目を伏せると、答えを胸の中に仕舞い込む。自身が「結城博己」の名前を口に出したときに、どのような報いを受けるのか計り知れなかったし、薫が肉親に対して、博己の名前を口にしないことも気になった。  響は心の中で、小さく舌打ちしたが、直ぐに気持ちを切り替える。矮小なβ性の生徒が、α性の生徒の悪事を告げ口するなど、難しいことも理解できたし、何より手中のスマホには、幾らでも手がかりが詰まっている気がした。 「そうか、それで、薫に伝言っていうのは?」 「………あの、再来週にインターハイの地区予選があるので、もし、外出の許可が出るようなら、観に来て欲しいと伝えてもらえませんか。」  なんと厚かましい男だろう。  響は心の中で、βの少年を嘲笑う。けれど、少なくとも薫に対して危害を加えるような男にも見えなかった。 「……ああ、期待はできないだろうけど、伝えておくよ。」 「お願い、します、」  響は大掛かりな荷物を手にすると、窮屈な二人部屋を後にした。薫の求愛の証である宝箱を抱えていると、響は一分一秒でも早く、薫を抱き締めたくなった。  薫の兄の後ろ姿を見送ると、隼人は自身のベッドに腰を下ろして、それから身体を横に滑らせ、シーツに寝転がった。突然の来客に甚く、気疲れした。  ガランとした薫のディスクを眺めていると、ぽっかりと胸に穴が空くようであった。  薫は、いつ、この部屋に帰ってくるのだろうか。
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