第10幕 ~Ωの生存本能~

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 「常識」とは何か。  健全な普通人が社会生活を営むために持つべき意見、行動様式の総体である。だが、「常識」などいうものは、曖昧で移ろいやすいものである。地域、時代、集合体が違えば「健全な普通人」の定義も異なるのは、想像に難くない。  そして近親婚は、この世界の、この時代の「常識」から逸脱し、例え婚姻届を役所に提出したとしても、受理されることはないだろう。  なぜ、近親婚は忌み嫌われるか。  諸説あるが、論理的で科学的な根拠を語れる者は恐らく存在しないだろう。この世界の古い歴史の上では、α性の血筋と権力を守るために、近親婚を繰り返した封建的な時代も確かにあった。  現代でも、遠縁の血筋にはなるが、特権階級のα性の家系同士の婚姻は珍しくはない。インセスト・タブーを声高に唱えたのは、民主的な時代に生まれた圧倒的多数であるβ性の「健全な普通人」である。彼等は「近親者と子を成すなど、おぞましい」という集団心理を、常識にまで引き上げた。  そうして、近親婚は禁忌となったのである。  学生寮から薫の荷物を引き払って、響は自宅のマンションの一室に持ち込んだ。大掛かりな荷物を持って、玄関のドアを開けると、しんと静まり返り、暗闇が広がっていた。  大きな窓の向こうには、都会の地上に散らばる無数の星屑が輝いている。 「ただいま」  響は部屋の奥へ声を投げ掛けた。  昨夜までであれば、薫が玄関まで出迎えてきてくれるところである。響は抱えた大きな箱を玄関の飾り棚に置いて、スーツケースと肩に掛けていた学生鞄を玄関の隅に寄せた。  リビングの明かりを付けても人影はない。キッチンのシンクには、洗い忘れたどんぶりと箸が無造作に置かれているだけであった。 「薫、寝てるのか?」  コンコンとドアをノックして、響は寝室の扉を開く。瞬間、ふわっと花のような甘い香りが広がった。 「……ん、……あ、あ、」  明かりもない薄暗い部屋の中で、もぞもぞとベッドの上で動くモノが見えた。 「……薫、?」  声をかければ、ピタリと動きが止まり、掛け布団から覗かせたのは、頬を赤く染めた薫の顔だった。 「……に、兄さん……」 「具合でも悪いのか、」  一歩、足を踏み込んだ瞬間、響は濃密な甘い匂いに包まれて、噎せそうになる。どくんと腹の奥底から熱が迫り上がり、否応にも発情期のΩの存在を感じ取る。 「……こっち、こないで、」  薫は懇願するように震えた声を上げた。けれど、薫の身体は正直で、花が蜂を誘うように甘い香りと甘い蜜を滴らせて、α性の響を誘惑する。薫から求愛を受けた響は、ふっと薄く口角を持ち上げた。 「……ぁ……」  薫の僅かな抵抗を意に介さず、響が掛け布団を引き離すと、くしゃくしゃに乱れたシャツ1枚のΩの姿が露になる。  薫はカァと赤い顔を更に赤くして、シャツの裾で露な下半身を隠そうとした。それでも、薫が今まで何をしていたかは、隠しようもない。  響は喉を小さく鳴らして、俯いている薫の頭をくしゃりと撫でた。 「薫、可愛いよ、」  耳元で囁かれた甘く低い声に、薫はぴくんと肩を震わせて見上げた。響の紅い瞳に射抜かれて、薫は目を逸らせなくなる。 「…………にいさん、」 「響って呼んで?」  響は薫の頬に手を添えて、小さな泣き黒子を親指で撫でた。薫は物欲しそうに瞳を潤ませて、震える唇を薄く開いた。 「ひ、ひびき……」  薫の口から溢れ落ちた名前に、「兄」と「弟」の関係性は消し飛んだ。響の唇と薫の唇が重なれば、甘いフェロモンと番の匂いが重なっていく。  ここには、常識などはありはしない。  ただαとΩがいるだけであった。
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