二章 物語という病

3/21

14人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ
 身体が千切られるような圧力を感じながら、マリーは目をつぶった。内臓が置いていかれるような感覚が心地よい。もともと大事にしてなかった自分自身のことを、マリーは思い出した。目を閉じて口を紡いで、自分の存在が誰にも気づかれないように生きていた頃の記憶が、感覚の向こうに残っている。  その時、マリーの心の中に一つの名前が思い浮かんだ。誰か、知っている人の名前かもしれない。顔がうまく思い出せないが、遠い昔にどこかで会ったような。白いワンピースを着た裸足の女の子だ。走り去る彼女を追いかけるように手を伸ばし、あいまいに薄れる意識の中でマリーは彼女の名前を呼ぶ。 「クレア?」  空中を落下していたマリーの身体を、やわらかいものが横から掴んだ。マリーの身体が空中で止まる。川の水が腕のような形になってマリーを掴んでいる。地平線に向かって赤い川がつづいている。この川の水はどこまでが生きているのだろうとマリーが考えているうちに、川はマリーを地面に下した。 「マリー、マリー! だいじょうぶ?」  川がマリーから離れると、ギルは掴まっていたマリーの右腕から飛び降りる。腕が少し痛い。マリーが自分の腕を見ると、ぬいぐるみが破れ、腕に血がこすれた痕があった。 「ごめんなさい。強くつかまりすぎちゃったの」 「平気よ。血も止まってる。気にしないで」  マリーを取り巻くように囲む川の水が、小刻みに震えている。様子を伺いながら近づいたり離れたりしている。 「クレア?」  水の震えが大きく、速くなる。その動きを見ているだけで、心がざわめくようだ。マリーは大きな声で川の名前を呼ぶ。 「クレア!」  川は地上から生えた橋のように空に向かって突き上がり、宙で一転して地上に突き刺さった。地面が大きく揺れてオレンジの土が飛び、マリーは地面に倒れる。紫が濃くなった空の中で水が鱗のように輝き、絶え間なく脈打っている。心臓が激しく音を立て、マリーは倒れたまま自分の胸を右手で押さえた。  暴れる川の衝撃音が耳に刺さって頭が痛い。体中が振動で揺れ、目が回る。マリーが目をつぶると、視界に白いワンピースを着た黒髪の少女が見えた。 「名前をすぐに取り去って」  声は聞こえないが、少女が話していることの意味が分かる。マリーは心の中で返事をする。 「どういうこと?」 「クレアっていうのは、私につけた名前でしょう? それを川が自分につけられた名前だと誤解してしまったのよ。川には私が見えないから」 「クレアって、あなたの名前なわけじゃないの?」 「違うわ。私には名前はないの。私はあなたの感覚だもの。命の一部だけど、命そのものじゃない。でも、名前のおかげであなたからは私の言葉が聞こえやすくなったみたいね。これからはクレアって呼んで」  大地がさらに激しく揺れ、吐き気がしてマリーはウサギの頭を取って、深呼吸を繰り返す。 「一度、川についている名前を取り去ってから、もう一度名前を付け直すの」 「取り去るって、どうすればいいの」 「どうでもいい名前をつけるの。心のこもっていない、記号みたいな名前を」  マリーは目を開ける。少し離れたところでギルが怯えた様子でうろうろしていた。川は地面に突き刺さり、地中を移動して別のところから飛び出し、再び空へ向かう。川が地中に刺さるたびに大地に衝撃が走り、地面に大穴が増えていく。  どうでもいい、記号みたいな名前と言われても思いつかない。マリーが地面を掴みながら荒い呼吸を繰り返していると、クレアの声が心に響いた。 「急いで。これは、あなたじゃないとできないの」  急かす声に反応するように、マリーは川を見ながら言った。 「マリー!」
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加