二章 物語という病

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 竜のように空に突き上がった川が、空中で形をなくして降り注ぐ。地面に近いところにあった水が渦を巻くように広がり、マリーに迫る。ギルがマリーの顔の前に走ってくる。 「マリー、水がこっちにくる! 逃げないと」  頭が揺さぶられるような感じがして、マリーは立ち上がれない。行って、と短く返す。 「名前を付け直して! 急いで」  クレアが心の中で騒ぐと、全身が痺れるような感覚がする。めまいはつづいていて、気分は悪いままだ。もう何もかも諦めたい気持ちのほうが強い。名前なんて何も思いつかない。  ギルがマリーの頬に自分の持ち手の部分を当てるようにして抱きついた。頬に触れる金属が冷たい。 「マリー、マリー、こわいよう」  震えるギルの涙がマリーの頬に落ちた。マリーは迫る川に目を向けて名前を呼ぶ。 「キトラ」  川の水の動きが固まったように完全停止する。ギルがそっと顔を上げると、しずくのいくつかが空中で浮いたまま止まっていた。ギルはマリーの頬から身体を離すと、しずくの一つを持ち手の部分で軽くはじく。しずくは空中から剥がれるように落ち、地面に落ちる前に他の水のほうに吸い取られるようにくっついていった。  部分的に鋭敏になった感覚が収まってきたようだ。マリーは大きく息を吐いて身体を起こす。音が聞こえそうなほど高鳴っていた心臓も落ち着いてきた。 「ぜんぜん、うごかないねぇ。マリー、どうしよう?」  マリーは目をつぶり、心の中でクレアに聞く。この川は命になったの? 「もう一度、名前を呼んでみて」  マリーは目を開けて、停止したままの川を見る。巨大な川が動きを止めていると、世界全部が止まってしまったように感じる。 「キトラ」  川の表面が小さく波打ち始める。水が意志をもって集まり始めている。マリーはもう一度名前を呼ぶ。水は集まりながら、一部を使って人の形をつくった。ヒト型になった水は振動の多い声で話し始める。 「わわわたたししし、いきてててるるる」  ギルと違い、キトラはもともと命だったはずだ。名前が壊れて生まれ変わった。それなら、もとの命だった時の記憶や知識は残っているのだろうか。 「キトラ、前に命だった時のことって覚えてる?」 「わわわからなないいですす」 「そう…」 「うままれれたたの、うれしししいいいです」 「ねえー! 水でいろんなカタチつくれるー?」  水の周りをうろついていたギルがキトラに話しかける。キトラは腹部の水を伸ばして階段をつくり、ギルの前に下した。ギルはキトラの顔を見てから階段を見て、軽くジャンプするように階段の上に飛び乗った。水の階段はギルを乗せたまま持ち上がる。 「すごーい! ねぇ、見てマリー! 高いよー!」  背伸びして手を上げても届かないくらいの高さのところから、ギルはマリーに話しかける。 「あれ、マリー?」 「なぁに」 「マリーから、なんか出てるけど、へいき?」 「なんかって、なに?」 「ケムリみたいなのが、うでのところから」  マリーの右腕から黒い煙が出ている。ちょうどギルの刃が刺さった位置だ。
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