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「ふえてく!」
マリーの右腕から染み出すように広がった黒い煙は、細く立ち上り、水の手のひらに乗ったギルのところまで届いた。ギルはハサミの持ち手の片方を煙に向かってそっと伸ばす。煙はわずかにギルに触れると、渦巻きながらギルに襲い掛かり、身体に巻き付いた。ギルは刃と持ち手をばたつかせながら、水の手の上を転げまわる。
「うわわわ、たすけてーっ」
煙に巻かれてギルの声がくぐもる。マリーは自分の右腕を押さえるが、煙は糸のように伸びてギルに絡まったままだ。マリーが力いっぱい煙を引くと、糸状になった煙に巻かれたまま、ギルが水の手からこぼれ落ちてきた。マリーは両手を伸ばしてギルを受け止めるが、ぬいぐるみの手の上にギルの鋭い刃が突き刺さった。
「痛いっ」
マリーは反射的にギルを振り飛ばした。煙に巻かれたままギルは地面に叩きつけられ、動かなくなった。右手の手のひらから血があふれ、ピンクのぬいぐるみが赤く染まっていく。マリーは痛みで痺れた右手を強く握り、左手で覆う。右手の甲からあふれた血で左手も赤く染まっていく。腕から伸びる煙はさらに増え、川の水に混じって透明な川の色を黒く染めていく。
手のひらの傷の痛みが全身に広がるように痺れて、マリーは地面に座り込んで手を押さえながら頭を膝に乗せる。深呼吸を繰り返して顔を上げると、手から出ていた赤い血が黒くねっとりとしたものに変わっていた。それは、マリーに向かって楽しげに笑いかける。
「マリー! マリー! しっかりして!」
マリーは自分の心臓が激しく音を立てていることに気づいた。クレアの声がする。
「手が、ギルに刺されたところから黒い液体が出てる」
「どこ?」
マリーが自分の両手を見ると、黒い液体はなくなっていた。ギルの刃が刺さったはずの手のひらにも傷はない。右腕から出ていたはずの黒い煙もない。見上げるとキトラの手の上でギルがはしゃいでいた。
「いろんなカタチになれるっていいねー! オイラ、ハサミだからカタチはかえられないんだ」
マリーが声をかけてもギルは答えない。マリーは叫ぶようにギルを睨みつける。
「ねぇ、ギルっ! さっきから呼んでるでしょ。どうしてすぐに返事しないわけっ」
怒鳴りつけられたギルは身体をビクリと震わせて、キトラの水の手と共に地上に下りてきた。
「どうしたのー?」
「さっき、私の腕から煙が出てるって言ってたよね?」
「え? なになに。いつのこと?」
「今さっき。それでその煙に巻きつかれて助けを求めてたじゃない」
「え? え?」
「あなたが落ちてきて、私の右手に穴が開いて、血がいっぱい出た」
「どうしたの、マリー。血なんて出てないよね?」
ギルがハサミの持ち手でマリーの手を指し示す。確かに血は出ていない。
「さっきまで出てたのっ。ものすごく痛かったし。だって手に穴が開いたんだよ」
「マリー、どうしたのー」
「ねぇ、キトラはどう? あなたの中にも糸みたいになった煙が入り込んで、色が変わってたよね?」
「すすすすみままません。わわたたたししし、わわからなななないいい」
マリーは自分の身体を丁寧に観察する。両手のぬいぐるみの手はどこにも穴が開いていない。傷つけられたのは右腕のところだけだ。着ぐるみの腕に穴が開き、こすれた暗い色の血が穴の周りに付着している。血は止まっているが、腕には鋭いもので引っかかれた赤い線が残っていた。
あれだけはっきり起こった出来事を、誰も覚えていないことが、マリーには信じられずにいた。そもそも彼らはニンゲンじゃない。どうして今まで、モノが言うことを無条件に信じていたのだろう。
「あなたが見たっていう黒い煙は、もしかしたら『夜』かもしれない」
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