二章 物語という病

5/21

14人が本棚に入れています
本棚に追加
/63ページ
「ふえてく!」  マリーの右腕から染み出すように広がった黒い煙は、細く立ち上り、水の手のひらに乗ったギルのところまで届いた。ギルはハサミの持ち手の片方を煙に向かってそっと伸ばす。煙はわずかにギルに触れると、渦巻きながらギルに襲い掛かり、身体に巻き付いた。ギルは刃と持ち手をばたつかせながら、水の手の上を転げまわる。 「うわわわ、たすけてーっ」  煙に巻かれてギルの声がくぐもる。マリーは自分の右腕を押さえるが、煙は糸のように伸びてギルに絡まったままだ。マリーが力いっぱい煙を引くと、糸状になった煙に巻かれたまま、ギルが水の手からこぼれ落ちてきた。マリーは両手を伸ばしてギルを受け止めるが、ぬいぐるみの手の上にギルの鋭い刃が突き刺さった。 「痛いっ」  マリーは反射的にギルを振り飛ばした。煙に巻かれたままギルは地面に叩きつけられ、動かなくなった。右手の手のひらから血があふれ、ピンクのぬいぐるみが赤く染まっていく。マリーは痛みで痺れた右手を強く握り、左手で覆う。右手の甲からあふれた血で左手も赤く染まっていく。腕から伸びる煙はさらに増え、川の水に混じって透明な川の色を黒く染めていく。  手のひらの傷の痛みが全身に広がるように痺れて、マリーは地面に座り込んで手を押さえながら頭を膝に乗せる。深呼吸を繰り返して顔を上げると、手から出ていた赤い血が黒くねっとりとしたものに変わっていた。それは、マリーに向かって楽しげに笑いかける。 「マリー! マリー! しっかりして!」  マリーは自分の心臓が激しく音を立てていることに気づいた。クレアの声がする。 「手が、ギルに刺されたところから黒い液体が出てる」 「どこ?」  マリーが自分の両手を見ると、黒い液体はなくなっていた。ギルの刃が刺さったはずの手のひらにも傷はない。右腕から出ていたはずの黒い煙もない。見上げるとキトラの手の上でギルがはしゃいでいた。 「いろんなカタチになれるっていいねー! オイラ、ハサミだからカタチはかえられないんだ」  マリーが声をかけてもギルは答えない。マリーは叫ぶようにギルを睨みつける。 「ねぇ、ギルっ! さっきから呼んでるでしょ。どうしてすぐに返事しないわけっ」  怒鳴りつけられたギルは身体をビクリと震わせて、キトラの水の手と共に地上に下りてきた。 「どうしたのー?」 「さっき、私の腕から煙が出てるって言ってたよね?」 「え? なになに。いつのこと?」 「今さっき。それでその煙に巻きつかれて助けを求めてたじゃない」 「え? え?」 「あなたが落ちてきて、私の右手に穴が開いて、血がいっぱい出た」 「どうしたの、マリー。血なんて出てないよね?」  ギルがハサミの持ち手でマリーの手を指し示す。確かに血は出ていない。 「さっきまで出てたのっ。ものすごく痛かったし。だって手に穴が開いたんだよ」 「マリー、どうしたのー」 「ねぇ、キトラはどう? あなたの中にも糸みたいになった煙が入り込んで、色が変わってたよね?」 「すすすすみままません。わわたたたししし、わわからなななないいい」  マリーは自分の身体を丁寧に観察する。両手のぬいぐるみの手はどこにも穴が開いていない。傷つけられたのは右腕のところだけだ。着ぐるみの腕に穴が開き、こすれた暗い色の血が穴の周りに付着している。血は止まっているが、腕には鋭いもので引っかかれた赤い線が残っていた。  あれだけはっきり起こった出来事を、誰も覚えていないことが、マリーには信じられずにいた。そもそも彼らはニンゲンじゃない。どうして今まで、モノが言うことを無条件に信じていたのだろう。 「あなたが見たっていう黒い煙は、もしかしたら『夜』かもしれない」
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加