二章 物語という病

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 死にたいという感情と死にたくないという感情がマリーの中で水と油のように面積を奪い合っている。丘を登りながら、マリーは自分の気持ちについて考えていた。マリーの感覚だと言うクレアは、本当にマリーの感覚なのだろうか。  もしも今、見ているもの、聞いているもの、感じていることが、全部、私のものじゃなかったら、私は本当に存在しているのかな。  縞模様の石に足をぶつけ、マリーは転びそうになって地面に手をつく。ポケットから顔を出したギルが声をかける。 「マリー、へいき? キトラにたのまなくていい?」 「そんなにあの川がいいなら、一人で行けばいいじゃない」 「ちがうよう。オイラ、マリーがラクできるかなっておもったんだよう」  ギルは小さく言いながら、マリーのポケットの中にうずくまった。クレアの声は聞こえないままだ。姿もよく見えない。何を信じて、何を信じてはいけないのか、マリーにはよく分からなくなっていた。マリーは自分の頬を右手で叩く。頬に軽い痛みがあるし、丘を登る足には疲れも出ている。たとえ人格があったとしても、この感覚はきっと本物だろう。  心のどこかで助けを期待する自分がいて、そんな自分への怒りをマリー自身が抱えていた。どうせモノしかない世界なのだから、いくらでも傷つけて構わないんじゃないかとマリーは考え始める。  ギルもキトラも、私が名前をつけたから生きられてるんじゃない。私が好きに使って何がいけないっていうの。  太いウサギの足が斜面で何度も滑る。呼吸は荒くなり、マリーは高くつづく斜面を見上げて立ち止まった。急にやわらかいものに背中を押され、マリーの足は軽く宙から浮き、身体はするりと崖の上に運ばれた。川のキトラがマリーを崖の上に押し上げたのだ。  マリーが斜面を上るのに苦労していたのを見て、助けようとしたのだろう。マリーはお礼を言おうと、右ポケットからキトラの一部である水の塊を出した。  その瞬間、マリーの背中を支えていた大量の水が、水の塊を手にしたマリーの右腕に襲い掛かった。水圧で右腕が潰れそうに痛い。マリーは手を振り払おうとするが、絡みついた水が蛇のように腕を締め付けて離れない。マリーは地面に倒れ込んで転がりながら川を振り払おうとする。 「マリー! マリー!」 「あなた、聞こえる? ねぇ、あなた!」  激痛でつぶっていた目を開くと、マリーは全身が汗で湿っているのを感じた。いつの間にかポケットから出たギルが近くで名前を呼んでいた。クレアの声も聞こえる。身体を起こすと、目の前に水の塊が一つ。その横にギルが立っていた。 「マリー、とつぜんたおれたけど、だいじょうぶ?」  マリーは水の塊を右手の甲で叩いた。水は丘を転がって川へと落ちていく。それを見たギルが叫んだ。 「どうして!」 「私を襲おうとしたじゃない。見てなかったの? 腕に絡みついて、つぶそうとした」 「マリー、ほんとにどうしちゃったの。キトラはここまでつれてきてくれただけだよ」 「嘘。ものすごく痛かったんだから」  マリーは左腕で自分の右腕を触ってみる。ぬいぐるみの腕は濡れていないし、痛みももうない。骨が折れているようなこともないみたいだ。 「おうさまに会いに行きましょう。今、彼女がいる場所なら案内できるから。あなたがこれ以上おかしくなる前に」  クレアの声が心に響いた。 「おかしい? 私がおかしい? 川が私に襲い掛かってきたのに? クレア。あなたが私の感覚だっていうなら、私が激痛を感じてたことは分かるはずじゃないの。腕がつぶされそうだったのに分からないの⁉」 「私は何も感じてない。その痛みは本当の感覚じゃないわ」
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