三章:最初に名前をつけられるということ

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三章:最初に名前をつけられるということ

 地上に出ると空の全てが紫に変わっていた。地平線に沈みかけていた紫の日はもう見えない。草原のオレンジと黄色のシマ模様も、光を失っている。すぐ近くに崩れた塔の残骸が散らばっていた。マリーと同じ顔をした女は、意識を失って倒れたままだ。彼女の目や口からは、黒い煙がまだ立ち上っていた。 「マリー、あなたに一つ、話をしなければならないわ」  マリーの身体の中にいるクレアが言った。マリーは声には出さずに心の中で返事をする。 「なに?」 「物語という病があるの。あなたはたぶん、それにかかってる」 「へぇ、それにかかるとどうなるの」 「本当の自分以外の自我が生まれる」 「どういうこと?」  クレアは沈黙する。マリーは自分の身体のすみずみまで意識を集中し、クレアが伝えてくる感覚をとらえようとする。 「簡単に言うとね、あなたは本来、存在しない人間だということ」 「…意味が分からない」 「彼女は心、あなたは彼女の身体。彼女を入れる器なの。でも、あなたは自分で自分に名前をつけてしまった。それが物語病のきっかけ。ニセの名前がつけられ、それを自分の名前だと信じることによって物語病は進行する。  あなたの名前を身近で呼びつづけた存在によって、あなたは自分がマリーだと信じてしまった。でもあなたは本来、心を持っていない存在なの」 「何が言いたいの?」  マリーの問いかけにクレアは答えず、話を続ける。 「彼女は心、あなたは身体、私は感覚、夜と呼ばれているものは彼女の感情。私たちはそれぞれの部分に分けられ、お互いを探し続けていたの」 「だから何が言いたいの?」 「私たちが一つになる時、あなたは器としての身体に戻って欲しいの。それが本来の形だから」  マリーは空を見上げ、それから自分の手をこすり合わせながら手のひらの感覚を確かめる。自分の手のひらの冷たさと弾力を確かに感じる。 「身体に戻るっていうのは? 私に死ねってこと?」 「それはちょっと違うわ。あなたはもともと存在していない存在。物語病という病が作り上げた疑似人格だもの」 「その病気、治らないの?」 「治るというのはつまり、あなたがただの身体に戻るということよ」 「そう」  光を失ったオレンジと黄色の草原で、草が音を立てて揺れていた。このうちのいくつかは、もしかしたら生きているのかもしれないとマリーは考える。 「マリー、これからどうしよう?」  ギルにクレアの声は聞こえない。座り込んだマリーの足元で、ギルがマリーを見上げていた。 「構わないわ。もともと死にたいと思ってたんだもの。何も変わらない」 「理解してもらえてうれしいわ。疑似人格とは言え、あなたにはまだやってもらわないといけないことがあるから」 「こき使われすぎて怒りも湧かない。あと何をしろって?」 「彼女の本当の名前を探してもらいたいの」 「おうさまの?」 「そう」 「あなたは知らないの? あなたは彼女の感覚なんでしょう?」 「私も夜も知らないわ。私たちももともと、人格があったわけじゃない。心と身体から分けられた時に意識のようなものを持ち始めただけ。彼女の名前を知っているのは彼女と、もう一人だけ」 「誰?」 「『最初に名前を付けられた者』よ。あなたにはその人に会いに行ってもらう」
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