三章:最初に名前をつけられるということ

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「マっ、おきた? なんかね、空があかるくなってきたよ!」  ギルはマリーの名前を呼びかけて留まり、彼女の顔の前で声をかけた。マリーが身体を起こすと、確かに空が明るくなっている。地平線の向こうに消えかかっていた紫の日はどこにも見えない。日が沈むと暗くなるというわけではないのか。 「散らばっていた夜がここに集まっているからよ」  体内でクレアの声が聞こえる。倒れた女の中に、一度排出されたはずの黒い煙が吸い込まれていた。マリーは塔の地下の壁に話しかける。 「アルフレッド、彼女を匿ってくれる? 私が戻るまで」 「わかった」  石壁は小さな部屋の形に組み変わり、棺のように女を囲んだ。壁面の一部に目が二つ現れ、石が割れてそこから声が響く。 「これでよいか」 「ありがとう。そのまま彼女を守ってて欲しい」 「任せるがいい」  マリーはオレンジと黄色の草原を地平線に向かって歩き始める。ギルが小走りで駆けてきて、マリーの服の右ポケットに飛び込んだ。 「どこいくの!」 「町に戻る」 「まちってこっち?」 「わかんない。…でもなんか、歩きたいような気がするの」 「わかったー」  風に揺れて音を立てる草たちが光って眩しい。ニンゲンの姿でいることで、危険な目に遭うだろうか。もしも、マリー自身に危険が及ぶなら、その物の名前を奪って付け替えると覚悟を決めていた。それでうまくいくかは分からない。でも、マリーはウサギでいる自分がまるでモノのように思えて、そういう自分をウサギと一緒に棄ててしまいたかった。 「きれいだねぇー」  ギルが輝く草原を見ながら言う。草の中から時々、話し声が聞こえる。それでも誰もマリーに近づく物はいなかった。  かなり長い時間歩き続け、後ろを振り返るとすでに崩れた石塔は草原の向こうに見えなくなっている。スカートの裾を少し引っ張るようにして歩いていたマリーの足は、心地よい疲労が染みわたっていた。地面が徐々にやわらかくなってきている。水分を多く含んでいるようだ。足に巻いていたレースがオレンジ色に染まっている。 「川につながってたらいいのにー」 「川?」 「キトラがきてくれるかもしれないよ!」  ギルが言った瞬間に、地面の水が集まり、柱のように立ち上がった。 「キトラ?」  水は集まり、人のような形をつくる。 「町まで、運んでくれる?」 「ままままち、まち、まち。どどどこのまちですすすか」 「私とあなたが最初に会ったところの近くの。病院があるところ」 「わわわわかりまししたたた」  水の形が手のひらに変わり、マリーはその上に乗る。 「私たちのこと、探しててくれたの?」 「わたたたししし、くううききにまじじれますす」  キトラは大気中の水分に混ざって、いろんなところに耳を潜ませているようだ。キトラは水の手でマリーの身体を包むと、蛇のようなしなやかさで草原を渡り、町へ向かった。 「私が頼んだことは、みんなだいたいやってくれるよね」 「命をくれたの、マリーだからね! あっ」  ギルはマリーの名前を呼んでしまったことに気づき、ハサミの持ち手部分を下げて落ち込む。 「名付けた人と名付けられた物が対等になることってないのかな」  マリーは小さな声で言ったが、移動の風音に消されてギルにその声は届かなかった。 「簡単に言うとね、あなたは本来、存在しない人間だということ」  クレアの声が思い出された。私はただの器。存在しなかったもの。おうさまの女が意識を取り戻したら、彼女を取り込んで私の意識は消える。死ぬのと変わらない。  町が見えてきて、マリーは病院の近くの赤いビルに下してくれるように頼む。ドラゴンと話したツタのあるビルの屋上に、マリーは下ろされた。  キトラは響く声で、何かあればまた名前を呼べと言うが、マリーは「呼ばれても来なくていい」と返す。 「私の頼みは命令なわけじゃない。あなたがやりたくなかったらしなくてもいいことだからね」  マリーは軽く手を振ってキトラと別れ、階段を使ってビル内に入って行った。
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