四章:自分の名前を選ぶ物たち

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 いつの間にか、足から血が出ていた。マリーは自分の足元を見る。かさぶたになって血を止めていたヘパトの名前が壊されていたのだ。血は出ているが痛みは感じないので、マリーはそのまま歩き続ける。一歩ごとに新しい名前をつぶやき、生まれたばかりの名前は周囲の物たちの中に不完全な命をつくり続けた。  マリーが話をしていたはずの「感覚」がほとんど声を発さなくなっていることに、マリーは気づいていなかった。名前を呼ぶ人がいなくなり、マリーが感染している物語病の進行は収まったが、そのせいで自我があいまいになっていた。  生まれたばかりのピピが、世界に次々と命を生み出し、夜の力が徐々に弱まっていく。マリーは名前のようなものをつぶやきながら歩く人形のようになっていた。歩いている意識も、本人にはほとんどなくなっている。 「ねぇ『夜』、聞こえる? わたしよ」  マリーは空の黒い煙に向かって声を張り上げる。それはマリーの声だったが、声を上げたのは、マリーの身体の感覚である「クレア」だった。感覚に過ぎなかった彼女は、名前をつけられたことによって人格に近い自我を持ち始めていた。心のようなものをもった感覚は、意志を持ってマリーの身体を動かそうとする。  やっと、自分だけの身体を手に入れられるんだわ。私たちが何を言っても聞いてくれなかった心を追い出して、私たちだけで生きられる。おうさまもリチャードも、戦うことにばかり夢中で、私たちの声に耳を傾けようとしなかったわ。喉が詰まりそうなほどの苦しみも、不安でいっぱいな感情も、ぜんぜん聞いてくれなかった。心はいつも自分のことだけ。  私たちが悲鳴を上げ続けていたことに、ぜんぜん気づいてくれなかった。
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