四章:自分の名前を選ぶ物たち

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 頭の痛み、胸の詰まり、倦怠感や全身の重さによって「聞いて欲しい」と訴えかけつづけてきたのに、クレアの声は心に無視されるだけだった。心に近い感情はまだ、心と連動して気持ちを発散することができたが、感覚は心が引き受けてくれないとどんどん死んでいき、やがては失われてしまう。 「夜、おりてきて!」  クレアはマリーの身体を使い、散り散りになりながら空中を飛び交う二つの『夜』に声をかける。マリーの意識はほとんどなくなっていたが、自分がしゃべっていることは理解していた。自分の姿を少し上から俯瞰して見ているような気分だ。  世界を覆うほど増殖していた『夜』は、クレアの呼びかけによって、マリーの近くにおりてくる。ふわふわと空中を漂いながら、二つの『夜』はマリーの周りを囲うように泳いだ。マリーの身体を使って、クレアがおうさまの身体を指さすと、二つの『夜』は絡まり合いながら皮膚や口や鼻の穴からおうさまの中に入っていく。『夜』がおうさまの中に入るにつれ、世界の色が少し明るくなるような気がした。世界すべてに、夜の暗さが少しずつ混ざっていたのかもしれない。でも、世界の色が全体的に変わっていることをそのまま事実として信じていいのか、マリーには分からなくなっていた。  『夜』のすべてが、おうさまの身体に入ったのを確認すると、クレアはもう一度『夜』に呼びかけて、『夜』だけをマリーの身体にうつそうとする。おうさまの口の中から一筋の黒い煙が伸びてきて、マリーは息を吸うようにその煙を吸い込む。『夜』が身体の中に入ってくると、クレアと『夜』の二人が身体の中で会話しているのが聞こえてきた。 「心なんてもう必要ないわ。心は私たちのことを全然大事にしなかったわ。いろんな痛みを伝えたけど、全部無視された。あなただっていろんな気持ちがあったのに、聞いてくれなかったじゃない。だから、もうこの身体に心はいらない。 感覚と感情と身体だけで生きていきましょう。生きていくのに心は不安定すぎるもの。自分自身で勝手に葛藤してケンカして分離して調和を乱す。もう心はいらない」  その時、誰かがマリーを呼ぶ声が聞こえてきた。
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