プロローグ

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プロローグ

 目を覚ますと、白い壁が見えた。天井のようだ。少女はもう一度目を閉じる。身体の感覚がほとんどない。視界が濁って目を開けてるのか閉じてるのかもはっきりしない。 「目が覚めたら、まずは名前を決めないといけない。この世界で生きていくには、何よりも名前が必要なんだ」  声が聞こえて、彼女は目を開けた。聞こえたというより「分かった」という感じが近かった。誰かがなにかを言ったことを、なぜか少女は理解した。 「起き上がれるかい? まだ無理かな」  聞こえないが内容は分かる。脳に直接書き込まれているような感じだ。 「名前を決めてくれるかな。君自身の名前だ。好きなものを選んでもらっていい。決めたら、それを心の中で唱えて。そしたらすべてがちゃんと始まる」  名前? 自分の名前? 自分に名前をつける? 「かわいい名前がいいかもしれないな。いや、君が望むならなんでも構わないのだけど」  私には分からない。決めて。勝手に決めて欲しい。 「名前はヒトにしかつけられないんだ。だから君が自分で決めないといけない」  少女は息を吸おうとした。しかし、呼吸ができているのか、感覚がなくて分からない。目も開けているはずだが、白い霧の中にいるように視界がはっきりしない。身体の感覚がない。感情も動かない。まるで中身が何もないみたいだ。 「マリー!」  少女は唐突に声を上げた。そして自分で驚いた。自分の声がはっきり聞こえたことに。 「マリー? それが君の名前? いいね」 「分からないの。なんか、急に思いついたから」 「それでいいんだよ。名前の付け方っていうのは、いつもそういうものだ」  自分の声と同時に視界も開ける。白いタイルの並んだ天井。ベッドの横に茶色い、クマのぬいぐるみが立っている。 「素晴らしいことだよ。名前が生まれる瞬間に立ち会えたなんて、とても光栄なことだ、本当に素晴らしい」 「どこにでもありそうな名前だわ」 「とんでもない! 名前というのはね、ここでは奇跡と同じくらい貴重なものなんだ」 「あなたは? あなたも動いてるんだから、名前があるんでしょう?」 「ぼくはリチャード。この世界へようこそ、マリー。これからよろしく」  巨大な頭部を縦に振ってうなずきながら、口を動かすことなく声を出した。 「起き上がれるかい? マリー」  マリーは身体を起こそうとする。さっきよりも身体の感覚がある。やわらかい感覚。手を見るとピンク色をしている。指がふわふわしたものに覆われている。マリーは両手で顔を押さえる。手袋かと思ったら腕も、顔もだ。 「私、ぬいぐるみになったの?」 「そういうわけではないよ」  白衣を着たクマのぬいぐるみは、隣にいる白い猫に小声で何かを言う。二本足で歩く猫もぬいぐるみのようだ。白猫は部屋から出て行き、白い室内にはクマとマリーだけになった。 クマはマリーの前に鏡を差し出す。鏡の中に写ったのは、ピンクのウサギだった。赤い小さな鼻と、縦に長い丸型の目、大きな口は四分の一に割ったオレンジみたいに快活な笑顔をつくっている。マリーは小さく悲鳴を上げる。 「これが私?」 「そうだよ」 「私、こんな姿で生きるの?」 「こんな姿? もともとどんな姿だったの?」  マリーは自分のことを思い出そうとするが、記憶がもともと存在しないみたいに思い出せない。 「覚えてないかな。まぁ、あんまりいい思い出でもないか。中途半端に死んじゃったわけだし」 「私、死んだんですか?」 「ほんとに覚えてないんだね。君は自殺したんだけど」  マリーは目を閉じる。記憶はないが、思い出したくない感覚だけが戻ってくる。こんな世界で生きてるのはもう嫌だって思っていたこと。毎日、絶望しかなかったこと。死にたい、ということだけが真実で、それを実行した。でもその後がよく思い出せない。 「ここはモノが生きる世界。モノみたいに生きてた人間が、たまに迷い込むんだよ、キミのように」 「ちゃんと、死ぬにはどうしたらいいんですか?」 「さあ、ぼくらは死なないからね」  クマは首をかしげる。ぬいぐるみのクマは口を開けて笑ったような表情で、そこには何の感情も映していない。マリーがもう一度自分の顔を触ると、頭部が回るようにずれる。人間の身体にウサギの着ぐるみを着ているようだ。ただ、首の部分に切れ目があるわけではなく、引っ張っても脱げないようだ。 「おっと、ダメダメ。まだ君の身体はなじんでないんだ。変に動かさないようにね」  リチャードは右手をマリーの動きを鎮めるような動きをしてから、部屋の正面にある扉を指さした。この部屋には窓もなく、部屋にはマリーの寝ているベッドがあるだけだ。 「ここがどんな世界かは、外に出てみれば分かる。扉は開いてるから、いつでも出ていくといい。ただし、『夜』には気をつけて。この世界には毎日、二時間だけ夜がくるけど、いつどこに来るかははっきりしてないんだ。生きている物は、夜に外に出てはいけない。恐ろしいことになるからね」  リチャードが出て行ったあと、マリーはかぶせられていた白い布団をどけて、ベッドから足をおろす。身体の感覚がまだ戻りきらず、マリーは床に倒れ込んだ。着ぐるみのピンクの両腕で身体を起こし、ベッドに手をかけながらもう一度立ち上がる。  私がやりたかったことは死ぬことだもの。もう一度、死に方を探してやるわ。  マリーはそう心に誓い、病室の扉を開けた。
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