慈音叫放射、あるいは悠久の残響

1/6
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ
 一万個も造ったうちのどこかの「世界」で、その音の存在を知ってはいたが、実際に聞くのは初めてだった。頭の奥底から湧き出るような、甲高い音。  風が吹くと、その音は消える。アスファルトの亀裂から生えた細長い草。電線から垂れ下がった蔦。葉量の膨れ上がった街路樹。周りに満ち溢れる緑が揺れる間だけ。こんな音が聞こえるほど、静かなはずはなかった。車道沿いなのだから。  真昼の陽光の下なのに、胸の奥が冷たい。  そんな僕の落胆を知ってか知らずか、僕の足元で膝を抱え、蟻の仕事を邪魔していた暇人が急に立ち上がる。 「何か喋ってよ。風が止むたび静かすぎて、耳がキンキンする」  耳音響放射。この「世界」では違う名前かもしれない。自分の耳の内側で発生する音だと、遠い「世界」の医学生が話していた。僕には関係なかったから、さして気に留めなかったが、もう少し聞いておくんだった。何のために鳴るんだ、こんな音。考え事に集中できない。 「考えるより、どこか見て回ろうよ。まだ人が残ってるかも」  指し示されたのは、かすれた横断歩道の向こう。錆びた信号機を(ばん)に置く、峡谷にかかる巨大な道路。それは弧を描いているのか、緩やかな上り坂になっている。無数にひび割れた道の先、対岸は谷への転落防止壁とフェンスに遮られて、様子が伺えない。しかし向こうへ風が吹き抜けたあとに聞こえた、ざあっという波のような音からすれば、こちらと同じように植物が横行しているようだ。人がいるとは思えない。  それに、赤信号だ。フェンスを取り巻く蔓薔薇の一部が、地を這い支柱を上り、歩行者用信号機の顔に赤い花柄のベールをかけている。 「押しボタンがあるよ。赤信号を言い訳にするなら、押してみるべきじゃないのかい」  からかい調子の声に促されて仕方なく、道路脇で葉っぱのお化けと化している柱に近づく。薄黄色の箱に、僕の爪の色ほどの淡い桃色の押しボタン。褪せて角の取れた色合いは、ヒヨコの羽毛と(くちばし)に似て見え、温かみすら感じさせた。所々に、滲み出て酸化した血のような錆が浮いているせいで、不穏さが際立つ結果になっているのが残念だ。  ――頭上でばたばたと音がして、一瞬ヒヨコが飛ぶ姿が頭を(よぎ)る。いやそんなことはあり得ない、ヒヨコは空を飛ばない。「世界」によってヒヨコ、つまり鶏がいるいないの差はあっても、その生態は共通だ。  横断歩道を、信号無視の小さな影が通って行く。あろうことか信号機の花冠に羽を休めた無法者は、チュンと鳴いた。  それはどこかにあった、偽物の鳥の声で囀る信号機を想起させた。でもあれは歩行者が道路を渡れるという合図なのだ。今鳴かれては困る。 「渡らないってさ。ごめんな」  呑気な声を尻目に雀は飛び立ち、フェンスを越えて羽ばたいて行った。僕が鳥の姿でこの「世界」にいた頃、翼のないものは誰も立ち入れなかった谷の向こう側へ。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!