プロローグ 鶴葉下《つるはげ》さんの悲劇

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「どうしてわたしは、こんなひどい目に遇わなければならないんだ」    鶴葉下さんは、ひとり暮らしのアパートの部屋で、一晩中泣くのでした。  この事実を知るとき、わたしは日本人の心の奥底に潜む残酷さを思い出し、激しく心が痛みます。アパートの部屋の窓ガラスは、町の人たちから道端の石に始まってジュースの空ビン、自転車や掃除機まで投げつけられ、一枚も残っていませんでした。  しかたなく新聞紙を貼りつけ、窓ガラスの代わりにしていました。  そんなとき、鶴葉下さんは、叔母さんからかなりの遺産を相続することになりました。  その遺産のひとつが、町はずれの高蔵寺にある塔でした。その頃は灰色だったと金太さんは教えてくれました。塔の回りには大きな空地が広がっていました。元々、叔母さんの従弟の別荘だったのですが設計を失敗、フラフラ左右に揺れて危険だったため空家になったそうですよ。  鶴葉下さんは、たくさんの食料を買い込み塔に運びました。仕事もやめてこの塔に閉じこもったのです。そうすれば、二度と誰からも悪口を言われずに済みます。  鶴葉下さんは作家をめざしていました。塔の九階、最上階の部屋で、ゆっくりと『鶴葉下照光(つるはげてるみつ)の生活と意見』という大作を執筆するつもりでした。この小説で芥川賞受賞を夢見ていたのです。  ところが心ない町の人たちは、静かに小説を執筆したい鶴葉下さんのささやかな願いすら踏みにじったのです。  朝から晩まで町の人たちが入れ替わり立ち替わり塔の真下に集まりました。夜更けまで人がいなくなることはありませんでした。少ないときでも十数人。多いときは百人以上の人々、塔の真下に集まり大声を上げたのです。 「髪の毛のない鶴葉下照光(つるはげてるみつ)。さあ、出て来なさい」 「俺たちから逃げられると思ったら大間違いだ!」 「ピッカリビー、おとなしく出てこんか!」 「わしは警視総監だ。出てこなければ、窃盗罪で死刑じゃ」  朝昼晩。鶴葉下さんに向け、耐え難い悪口が投げかけられました。そのうちに音響装置まで設置され、鶴葉下さんへの悪口が空いっぱいに広がったのです。  だが物事には全てカタストロフがつきものというものです。  そのカタストロフというのは五十年前の六月の第三土曜日でした。
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