ありがとう

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 小さな島国、日本。  その北側に僕はいた。  日本は地震の多い国で、この地域も大きな地震に襲われた事がある。  ……多くの命が失われた。  けれど、それでも大勢の人が今を生きている。もちろん、この僕も。  だから精一杯生きようと、そう思った。  今日という日に感謝をして。 「にゃあ〜」  膝の上で猫が鳴いた。飼い猫のコロたんだ。翡翠色の瞳が愛らしい。  いつの間にか眠ってしまっていたのか……。デスクの上ではパソコンのディスプレイが薄暗くなっていた。どうやら動画の編集中だったようだ。 「ん〜……っ」  腕を上に掲げ、背伸びをする。寝落ちは腰を痛めるからやめようと決めているのに、たまにやってしまう。ただでさえ本職のデスクワークでガチガチに凝り固まっているというのに。  気を取り直して作業を再開しようと、パソコンのディスプレイを確認する。そこにはもうすっかり見慣れた画面が映っていた。  ゲームの実況動画を撮って編集。完成したら夜に動画サイトに投稿する。それが僕の日課だ。ジャンルとしてはホラーゲームが多い。……心臓は全然強く無いけれど。むしろ弱い。  昔は無名だったから再生回数も全然伸びなかったけど、今はありがたい事に投稿を待ってくれている人がいる。嬉しいことに30万回再生もいった動画もある。  今編集しているのは毎週末の恒例となっている縛りプレイというもの。ただ遊ぶよりも仕込みとかに時間はかかるけど、その分やりがいも感じている。  やりかけの編集作業を再開し、最終チェックの段階に入る。……その時、鼻の奥に嫌なムズムズを感じた。重症花粉症だから窓はずっと閉め切っている。家の出入りをする時は服や体に付いた花粉もかなり神経質に気を遣っているのに……。  違和感の正体にはすぐ気付いたが、理由(ワケ)は分からなかった。  何故か部屋の窓が開いていたのだ。しかし今は家には自分しかいない。誰も開けるような事はないはずなのに……。  加えて、窓の向こう側は真っ暗だ。夜だからとかじゃない。時刻は午後4時。暗いはずがない。  周りを見渡すといつの間にかコロもいなくなっている。散歩に出かける事はよくあるけれど、何故か今は胸がざわついた。  しかも花粉症の症状を感じたのは先程の一回きりで、今はなんともない。それはありがたい事だけれど、絶対に何かがおかしい。  僕はまさかと思い、慌ててディスプレイを確認する。……嫌な予感は見事に的中した。  画面に映っているのは先程までの編集画面ではなく、黒背景に赤文字でたった一言『外に出ろ』とだけ書かれている。  こんなのゲームや映画の中だけで充分だ。ホラーゲームのやりすぎでこんな夢を見てるだけかも……。そんな事を考え、典型的だけど頬を思い切りつねってみる。……とても痛かった。黒い画面に映り込んだ自分の顔がなんだか情けない。  こういう時は部屋の隅にうずくまっていた方が良い……。そもそも怖くて動けない。元々お化け屋敷とかその類は大の苦手なのだ。VRホラーだって苦手なのに、まさか自分の身に起こるなんて……。  薄暗い部屋の中を、自分以外の何かが動いている気がする。想像力のせいでそう感じているだけなのか、本当に何かがいるのかは分からない。恐怖に耐えられなくなった僕は慌てて懐中電灯を探した。不安な時、何故か人は明かりに頼りたくなる。見える見えないでは安心感が全然違う。  玄関まで駆けて行き、防災セットの中をまさぐる。背中に冷んやりとした視線を感じたような気がして、手に触れた懐中電灯のスイッチを慌てて入れた。  ……黒い何かと目が合った。  慌てて家を飛び出した僕は夢中で走り続けた。暗い森を、ただひたすらに。  いったいどれくらい走ったのだろう。週1でフットサルをやっているとはいえ、もう体力の限界だった。  後ろを振り返りながら縺れる足を引きずって進んで行く。そうしているうちに段々と呼吸も落ち着いてきた。  もう家に戻る気にもならず、辺りをゆっくりと見渡す。木々が生い茂っており、地面は全く舗装されていない。まさに森といった感じだ。家の近くにこんな場所なかったはずなのに……。  懐中電灯を握る手が汗ばんできた。震えも出てきて腱鞘炎になりそうだ。それでも勇気を振り絞って前方を照らしてみる。  明かりが照らしたその姿に、思わず僕は目を見張った。 「コロ!?」  そうだ、間違いない。あの縞模様は間違いなくコロだ。僕は慣れ親しんだ家族の姿にホッと安堵した。 「にゃ」  コロは短く鳴き、森の更に奥へと進んでいく。なんだか導かれているような気がして、僕はその背中を追いかけた。  暫く行くと見覚えのあるファミレスがぽつんと建っていた。何故こんなところに。そんな疑問よりも先に、懐かしいという気持ちが胸を支配した。  店内に明かりは点いている。人の気配はあった。だから安心してゆっくり近づき、中を覗いてみる。  ……そこには、僕がいた。  厳密には今から3年ほど前の僕。  あの頃はゲーム実況はお休みしていて、会社の同僚とよくこうして食事をしていた。  同僚の顔はよく見えない。会話の内容もおぼろげだ。けど、毎日がとても楽しかったのはよく覚えている。 「うわっ!?」  突然店内の明かりが消え、辺りが再び暗闇に包まれる。慌てて懐中電灯のスイッチを入れようとしたけど、もう明かりが点く事はなかった。  無機質な感触を片手に、ただ呆然と立ち尽くす事しか出来なかった。  そうして、どれくらいの時間が経ったのだろう。とても長かったように感じたけれど、実はほんの数秒の事だったのかもしれない。  だんだんと世界が明るさを取り戻して行って、僕は自分の部屋にいた。  そこにもまた、昔の僕がいた。  あれは大好きなホラーゲームの大型アップデートがあってすぐの事。僕は寝る暇も惜しんで仕事とゲーム実況に明け暮れていた。寝不足で倒れそうになった時の事をよく覚えている。学生の頃は少し徹夜したぐらいだったら平気だと思ったんだけど、流石に若い時のようにはいかないらしい。  時は流れて、僕はチャンネル登録者数が1万人になっていた。あの時は嬉しくて、涙が出てきた。最初は10人とかそれぐらいだったのに。あの時は記念に確か質問コーナーを企画したっけ。想像以上にたくさんのコメントが来て、選ぶのが大変だったのをよく覚えている。  今では2万人になって、SNSのフォロワーも順調に増えて行って。ファンアートもたくさん貰えるようになった。  誰かが見てくれている、応援してくれているのは、こんなにも有難い事なのだと、改めて実感する。  足元にフワフワの毛並みを感じ、僕はコロをそっと抱き上げた。目の前にはもう昔の自分はいない。画面もいつも通りだ。  窓から差し込むオレンジ色の夕陽が、とても眩かった。  小さな島国、日本。  それよりも更にちいさな、僕という存在。  大きな事は出来なくても、きっとやれる事がある。  だから今を精一杯生きよう。  今を思い切り楽しもう。  ツラいことも全部抱きしめて。  今日という日に感謝を。    ありがとう。
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