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「……ふうん」
秘森さんが情報を咀嚼するようにゆっくりとうなずく。
「それで、どうして桐谷さんは帰る必要があるの? プールにしか出ないなら、実験には関係ないのに」
「え? そりゃ怖いでしょ、そこからプール見下ろせるし」
「窓ガラスがあるでしょう。たとえ三階まで人魂が飛んできたとしても、それほど危険には思えないけど」
意味が分からない。
何を言ってるんだ、この人は。
人魂を信じていないわけではない、むしろ人魂が生徒の目を狙うことを認めていて、その上で泰然としていられるなんて。
「き、危険かどうかじゃないんじゃないかな」
「どうして? 目を潰す以外に問題はあるの?」
「いや、恐怖ってそういうもんじゃないでしょ? 目を潰すくらいなら僕だって指一本でできるよ。だけど僕は人間であって人魂じゃないよね?
同じ人間の気持ちですら何考えてるか分かんなくて怖いのに、それなのに、何が起こるか分からない、どうなるか予想できない、そんな存在、めちゃくちゃ怖いに決まってるじゃないか!」
思わず語ってしまった。
我ながらドン引きだ。
完全に前のめりだし、両手は空を掴むように広げられているし、こんなアクションをしてまで何を主張していたのかと言えば、僕はヘタレですということだけだ。
けれど彼女には分からないだろう。
そこにいるだけで恐怖する存在が本当にいることを。
そういうものがいつ現れるか分からず、毎日おびえて暮らす僕のことを。
祓えないのに視えてしまう、何を考えているのか分からない、分からないからこそ最も恐ろしい存在のことを。
そろそろと上半身を引き、両手を下ろす。
恐る恐る秘森さんを見た。
無表情だ。
内心どう思っているのだろう。
それを一切悟らせないまま向けられている視線が怖い。
「手伝うよ」
空白の時間を包み込むように、秘森さんは言った。
「……え?」
「私、もうプリント終わったから」
会話するのさえ初めてだというのに、引かれるどころかこの反応というのは予想外だった。
何と返して良いのか分からない。
「桐谷さんが夜の学校を怖がったのは分かった。でも今、百瀬君も怖いんでしょう?」
「あ、うん……それは、でも」
「だったら、一人より二人の方が怖くない」
僕は彼女をまじまじと見た。
それでも秘森さんは動じない。
なぜこれほど自然に手を差し伸べてくるのか。
僕が彼女だったら、こんなことは申し出ない。
僕が特別薄情というわけではないと思う。
そして今までは、秘森さんだって特別情に厚いタイプには見えていなかった。
「大丈夫、そんな手間かかるやつじゃないし……それにほら、女の人が夜遅く帰るのも危ないし」
「うん。だから、明日の朝帰ればいい」
逆転の発想だった。
「そ、それはさすがに。ご両親が心配したりしないの?」
「夜道を帰るよりここに泊まった方が安全だから」
「いやでも、お風呂とか歯磨きとか……」
「お風呂や歯磨きより安全の方が大事でしょう?」
まるで僕の方がおかしなことを言っているかのような反応だ。
「いやでも、朝までってことはここで泊まるってことだよね? 一応僕もいるんだけど……」
気まずいながらも訊いてみる。
普通、良く知らない男と二人きりなんて女性は怖がるのではないか。
「それも大丈夫」
「なんで」
「私だけは安全だから」
どういう意味だ。
しかし、秘森さんはそれ以上語らない。
「百瀬君も一時間おきじゃ仮眠できないでしょ。寝てるあいだは私が引き受ける」
澄んだ声に再度言われる。
迷っていた。
いくら考えても裏があるようには思えない。
――これって善意、なのかな。
断る理由は尽きた。
確かにひとりは怖いし、こうして誰かと一緒にいると安心できる。
結局僕は、じゃあ悪いけど、と言って手伝ってもらうことにした。
サンプリングと、そのサンプルを使った測定実験の手順を説明する。
ちょうど時間だったので、実際に実験を行って見せた。
そのあいだじゅう、僕は彼女の表情が気になっていた。
秘森さんにはほとんど表情がない。
悲鳴を上げた僕を発見したときも、初会話なのに熱弁してしまったときも、こうして話しているときだって、まるであらかじめ知っていたかのように平静だ。
だから周囲に興味が薄いのかと思いきや、こんな風に僕の実験を手伝ってくれたりする。
共同実験者ですら帰ったというのに。
「……えっと、どこか分からないとこある?」
説明を終えて尋ねる。
「大丈夫」
僕のノートを目で追いながら返事した。
「た、助かるよ。今度何か僕が手伝えることあったら言って」
「そうね、考えておく。それより」
ふと視線を上げる。
澄んだ大きな瞳の中に、僕がいた。
彼女の気持ちは読めないけれど、不思議と不安や恐怖は感じない。
「百瀬君は、人魂の話を信じてる?」
「……えーっと……」
言葉に詰まる。
なぜこんな質問をするのだろうか。
「どうなんだろ……でも、実際に目を怪我した人がいるから」
同じ学科の女子生徒である五十嵐みずきは一昨日プールで負傷し、今日にいたるまで登校していない。
たしか桐谷さんと仲が良かったはずだ。
「聞いたところによると、怪我、あまり思わしくないようね。その半月ほど前には田上龍斗たちが友人数名と夜の学校のプールで人魂を目撃した」
「知ってたんだ」
田上君も同じ物質工学科の生徒だ。
クラスでも目立つ存在で、声も体も大きい。
「五十嵐さんと付き合ってるって聞いたことあるよ」
「そうみたいね。彼は見かけただけで無傷だった」
「ほかにも人魂を見た人はいるの?」
「田上龍斗以外の目撃者が他学科にもいるようだけど、時期的にはこれが最初」
「へー、人魂が出るようになったのって最近なんだね」
噂話など興味がなさそうに見えるが、かなり人魂に関する情報を持っているあたりそうでもないのだろうか。
「それで……秘森さんは、どうしてこんな話を」
僕の問いに答える代わりに、彼女は右を見た。
窓だ。
そこからはあのプールが良く見える。
――なんだ?
意味ありげだが語らない。
何かを知っていて僕に伝えようとしているのか。
だとしてもどうしてこんなやり方をするのだろう。
まるで……僕の恐怖心をあおるような。
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