目喰いの人魂

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 ――秘森さんが逃げる時間だけでも稼がなきゃ……!  僕は実験室の左側にある薬品棚に飛びついた。 『人魂が目を狙うことが分かってたような口ぶりじゃねえか、ああ?』  凄む声を背中で聞きながら冷えゆく手で褐色瓶を取り出した。 たっぷりと石油が入っている。 その中に小さな四角いものが沈んでいた。 もう豆粒ほどの大きさしかない。 『あれもお前の仕込みだったんだろ。さっきも妙なこと言ってたもんな、人魂の正体とかさ』  急いで机に戻り、引き出しからピンセットを取り出す。 銀色に輝くサイコロのような金属片を摘まみ出すと、酸化が始まり表面から急速に輝きが失われていった。 『もし人魂が作り物だってんなら、それが分かるのは犯人だけだ。 ……全部、お前が仕組んだんだ』 『違う。うちの科の生徒ならアレの正体に気付けて当然というだけ』  窓を開ける。 夜の匂いの向こうに二人が対峙していた。 プールは黒く沼のように沈黙している。  今なら、風は吹いていない。 『言えよ、おら。どうやってあいつの目を傷つけた? どんな道具使ったのか出せよ』  ピンセットごと大きく振りかぶる。 鈍い鼠色のそれを思い切り放り投げた。 緩やかな曲線を描きながら、プールのちょうど真ん中に着水する。 『お前ごと、ぶっ潰してやるからさ』  瞬間、白い煙が立ち上った。 『何……』  田上が驚いたように辺りを見回す。 気づいたのだ。 『なんだあれ……お前、今何した?』  金属片は水に浮かび上がった。 沈む気配もなく白煙を吐いている。 蛇の威嚇じみた声を上げて水面を滑った。 『あんときと同じ、人魂……』  たなびく煙の尾がオレンジに染まる。 発火したのだ。 ついに小さな火球となったそれは、不自然にカーブして二人へと向かう。  ――なんなんだ、あの動き……!  奇妙な軌道を描いた直後、爆発した。 まるで銃声だ。 『ぐっ!』  田上君が呻く。 痛々しい響きだ。 脳裏に、あの時の光景がよみがえる。  ――まさか……、また。  血の気が引いた。  なぜだ。  僕は実験室を飛び出した。 暗い廊下を全力で走り抜ける。 先ほどはあれほど怖かった夜の学校が、今はただまどろっこしいとしか思えない。  目指すはプールだ。 あの二人のもとに行く。 こうなったからにはもう無関係を貫けはしない。  ――どうしようどうしようどうしよう。  頭が動かない。 息が苦しい。 それでも行かなければいけない。  ついに、プールサイドに辿り着いた。  息を切らせてよたよたと走り寄った僕に、田上君はぎょっとした目を向けた。 血管の浮いた太い腕を曲げ、左手の甲を右手で押さえている。 肩で息をする僕を、秘森さんは凪いだ顔で見ていた。 「百瀬?」 「た、田上、くん。ごめんなさい」  息を整える。 動悸が収まる気配がないのは、果たして走ってきたせいだけだろうか。 頭がくらくらする。 両ひざに手をついて鼻水をすすった。 「なんだ、どうした? 良く分からんが落ち着け」  先ほどとは対照的な、角の取れた声だ。 たいして仲良くもないのに心配してくれている。 きっと根は良い人だ。 だからこそ、言わなければいけない。 「田上君、ごめんなさい……僕なんだ」 「はっ?」 「僕が、全部やった」  彼は目を見張った。 秘森さんが何か言いたげに口を開いたが、僕は声を張って被せるように続ける。 「人魂は僕の仕業なんだ。五十嵐さんの怪我も、今の、田上君の火傷も」  田上君ははっとして押さえていた手を退けた。 まだ痛むであろう火傷と僕の顔を交互に見る。  毒が徐々に染み渡るように、顔つきが歪んでいった。 「……どういうことだ」 「半月前、ふとやってみたんだ。夜まで実験することはそれまでにもあったけど、先生が授業中に言ってた話を思い出して、薬品棚を覗いた。 カギは掛かってたけど、先生はいつも僕にカギを押し付けて先に帰るから」 「薬品棚?」  田上君の問いに秘森さんが答える。 「……アルカリ金属の一種」  ああ、と僕は息を吐く。 秘森さんは最初から気付いていた。 「うん。金属ナトリウムを使ったんだ」  アルカリ金属の一種である金属ナトリウムは、ナイフで切れるほど柔らかい。 また容易に空気中の酸素で酸化するため、普段は石油中に沈めて保管しなければならない。 「最初は一辺が七ミリの正方形。プールの周りに誰もいないのを懐中電灯で確認して、恐る恐る投げ入れたら、夜空みたいに真っ暗なプールで流れ星みたいに光ったんだ。多分そのとき、遠くから田上君が見てた」 「隣の機械科棟にいたんだ。ダチ待ってた」  唸るように田上君が言った。 「だから機械科にまで噂になってたんだ。朝、クラスの人がプールに人魂が出たって噂話をしてた」  それ以来、夜のプールには人魂が出ると噂されるようになった。 肝試しをする生徒までいたらしい。 僕は誰も近くにいないときを見計らって、また少量だけ金属ナトリウムを窓から投下した。 四回試したとき、また建物内で誰かが目撃した。 人魂はその地位を強固なものにし、噂はますます広がって、共同実験者の桐谷さんまで怯えさせることとなった。 「おい百瀬」  厚ぼったい目蓋の下で、田上君の目はぎらぎらと光っている。 「お前は、あの日も単なるイタズラで夜のプールに金属ナトリウムを放り込んでたのか」  問いがナイフのように突きつけられる。  あの夜のことを思い出す。 三階から見ていた僕に、彼女たちのやり取りは聞こえなかった。  秘森さんを見ると、はっとした表情で僕を見返した。  彼女たちのあいだにどのようなやり取りがあったのかは知らない。 そして秘森さんは「言えない」と言った。  ――僕の選ぶべき道は決まった。  どちらにしても僕が犯した罪に変わりはないのだ。 だから。  僕は、深くうなずいた。
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