目喰いの人魂

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「……うん」  瞬間、頬が弾けた。  体が宙に浮く。 視界が白く染まり、頭全体がしびれた。  殴られたことにようやく気付く。  一拍おいて、凶悪な痛みが襲ってきた。 盛大な水しぶきを上げ、背中からプールの底へと沈んでいく。  ――赤いリボンだ。  一本、血の帯がたなびくように水面と自分とを繋いでいる。 口からだろうか。 そう思っているうちに大きな衝撃が辺りをかき混ぜて、おびただしい泡がリボンを霧散させる。 淡い水面の光は体温を持った影に塗りつぶされた。 田上君はまだ気が済んでいないようだ。 太い腕が泡を切って僕の首を捕える。  ――苦しい。  一気に体内の空気が口から逃げていく。 ごぼごぼという音を立てるたび、思考に(もや)がかかっていった。 苦しいのは好きじゃない。 でも、怖くはない。 ここにあるのはただ、田上君に殺されるという『分かりやすい』事実だけだ。  ――五十嵐さん、ごめんなさい。  せめてもの償いに抵抗はしないでおく。 これなら確実に死ねるだろう。 死んだあとは幽霊にでもなるのだろうか。 だったら良いな、と僕は思う。  不意に、身体が軽くなった。  細い腕が僕の身体に絡む。 ぐんぐんと水面が近づく。 誰かが僕を呼んでいることに気付いた矢先、肺がものすごい勢いで空気を求め始めた。 「ぶはっ!」  本能で酸素をむさぼる。 薄く頼りない手にぺちぺちと頬を張られながら、ゆっくりと視線を巡らせた。 「あ……」 「起きて! 目を開けて!」 「ひ……めもり、さん」 「嘘つき!」  まさか助けられて早々に罵ってくるとは思わなかった。 それにしても、彼女でも焦ることがあるのか。 「あなたも早く百瀬君を上げて!」  田上君を叱り飛ばすと、困惑顔の彼が意外にも僕の身体を水の外へと押し上げる。 身体がに力が入りづらかったが、二人の力で水から上がることができた。 プールサイドで呆然とへたり込んでいると、続いて上がってきた二人が僕を挟んで頭上で会話を始める。 「さっきの、どういう意味だ」 「そのままよ。百瀬君は悪くない」 「さっきこいつが自白したじゃねえか」  上から睨みつけられる。 眼鏡は殴られたときに吹っ飛ばされたので、ぼんやりとしか見えなかった。 大量に水を飲んで朦朧としていた僕は、腑抜けた顔で彼を見上げる。 「この人は私をかばったの」 「ああ? ってことはやっぱりお前が――」 「最後まで話をきいて」  伸ばしかけた手を叩く勢いで秘森さんが遮る。 「……今回、百瀬君には私たちの会話を聞いてもらっていたの。スマホを通話状態にして、あそこから」  指さされた右上を見る。 僕がさきほどまでいた物質工学科棟の三階に、消し忘れた明かりが灯っていた。 「だから百瀬君は私たちの会話の内容が分かっていた。それで、助けようとしてここに来た。 ……私は、もし田上君との間に『何が起きても』真実を証言してもらおうと思っただけだった。今から起こることは私の妄想なんかじゃないし私はちゃんと無実だって」  秘森さんの後ろから、するりと白猫が現れた。 僕の膝の上に乗ると、満月のような目で見上げてくる。 「だから……まさか、こんなことになるなんて」  後ろ足で立ち上がった猫が僕の口元を舐めた。 純白の毛並みが、紅を引いたような淡い赤に染まる。 「もっとあなたについて考えるべきだった。あのときも百瀬君は、五十嵐さんたちに囲まれた私を助けるつもりで『人魂』を出したんでしょう」  二日前を思い出す。  空は薄墨色だった。 実験がひと段落したので窓の外でも眺めようと思ったら、プールサイドに人がいることに気付いたのだ。 誰が誰か分かるほど明るくはないし、言葉も不明瞭で聞き取れない。 けれど、ひとりの女子を残りの三人が小突いたり脅したりしているのは分かった。 「……あの怒鳴り声、五十嵐さんだったんだね」  生で聞く怒声に、それが女性であっても恐怖を感じたのを覚えている。  ――だけど、あの子はもっとつらいはずだ。  そのときの僕は、秘森さんに自身を重ねていた。 いつも僕を苦しめているような底知れぬ恐怖にたったひとりで耐えている彼女を、どうしても傍観することができなかった。  彼女の恐怖を排除したい。  ただ、それだけだった。 「美談にしてんじゃねえよ」  田上が切り捨てる。 「そもそもお前は、あんときも秘森やみずきがどんな会話してるのか通話で聞いてたってのか?」 「いや……」  連絡先を交換したのはつい先ほどのことだ。 「じゃあお前は、あの離れた研究室からなんとなく雰囲気で判断しただけじゃねえか。秘森はいまだに呼び出しの理由を話さねえ。それでみずきが悪者なんて、誰が判断できる!」  僕より先に、秘森さんが口を開く。 「だから百瀬君はあなたに黙って殴られたの。全ての責任を負うつもりで」  凛々しい瞳が僕を見下ろす。 確信と悲しみの色が(にじ)んでいた。 「あなた……さっき、死んでもいいと思ったでしょう」  どうして分かったのだろう。  不思議な人だ、と僕は思った。 こうして見つめ合っていると全てを見透かされている気がする。 彼女はただ、白猫の霊が憑いているというだけの普通の人間なのに。 「……死ねば、怖くなくなるから」  だから僕はつい話してしまった。 誰にも打ち明けたことのない、孤独でいびつな苦しみを。 「さっきは苦しかったけど、でもそれだけだ。分かりやすいものは怖くない。沈められて死ぬのは分かりやすいし、死ねばそこで終われる。怖いものにおびえることも、もうなくなる」  きっと二人には理解できないだろう。 気を抜けば襲われるかもしれない恐怖の存在を、親にすら信じてもらえない僕のことは。 「もし死んで幽霊になれたら、それはそれでいいよね。あっち側になれるわけだから」 「あっち側?」 「怖がる方じゃなくて、怖がられる方」  得体の知れない何かにおびえる日々はもううんざりだった。 それならいっそ、逆が良い。 「……もしかして、金属ナトリウムを使って人魂を作っていたのも?」  秘森さんの言葉に感嘆の息をつく。 本当に勘が良い。 「確かに百瀬君のやった行為は危険なものだった。けど、あのとき投下された金属ナトリウムはすごく小さいものだったし、場所だって充分に離れてた。きっと百瀬君は、今までに何度も試してたのよね」 「どうして言い切れるんだよ」  田上君が不機嫌に口をはさむ。 「さっき彼が言ってたでしょう。『最初は一辺が七ミリの正方形』。サイズと形状を認識したうえで、プールの周囲を懐中電灯で調べてから決行した。 今までに何度か行った投下で、誰にも迷惑を掛けずに炎の光だけは見えるサイズを見極めようとしていた」  僕は控えめにうなずいた。  誰かに怪我をさせるつもりなどなかった。 だからサイズも小さいものから始めたし、懐中電灯を使ってプールの周辺に人影がないかを念入りに確認した。 それまでは必ず予想の範囲内だったのだ。 燃焼時間も可動範囲も、重ねた経験から得た予測を裏切ることはなかった。 隣りの機械科棟に明かりがついていることさえ、すべて織り込み済みだった。  それが、あのときだけ――秘森さんを救おうとしたときだけ、金属ナトリウムはあり得ない動きで人を襲った。  彼女の足元では、今も白猫が守護神のように控えている。
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