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「で……、人魂とてめえの怖がりに何の関係があんだ?」
田上君の反応はもっともだと思う。
普通はそこが繋がらない。
秘森さん以外は。
「……生きてる時間、全部が怖かった」
霊なんて視えなかったら、
田上君くらい強かったら、
祓える力があったら。
もし僕がそうだったなら、何か違っていたかもしれないけれど。
「どうにかして克服したかったんだ。それで、思った。……僕自身が恐怖になればいいんじゃないかって」
幼稚でバカなのは分かっている。
でもそうするしかなかった。
自分で死ぬ勇気すらない意気地なしなのだ。
霊感はあるが祓えるほどではない。
視えるだけだから詳しい情報は感じ取れない。
得体の知れない異形に怯えながらも、誰かに相談する勇気もない。
蛇口から垂れる水の音に、窓の外で響く風の音に、背後から聞こえる誰かの声に、いちいち心臓を凍らせてはそれと悟られないよう生きてきた。
「僕の勝手な行動で怪我させてしまって、ごめんなさい」
膝をそろえ、ざらりとしたコンクリートに額を押し付ける。
「どんなことをしてでも償います。本当に、すみませんでした」
「待って」
秘森さんが静かに制す。
「百瀬君のせいじゃない。私も言っておかなきゃいけないことがある」
「呼び出された理由か?」
「そう」
後頭部にぽすんと重みを感じた。
霊体独特の虚ろな重量感を感じる。
――え、まさかこの状況で乗っかられた……?
「今から話すのは、全部本当のこと」
だから頭を上げて、と秘森さんが言う。
僕は大きな毛玉の重みを感じつつ、ひとり曲芸師のような気持ちでそろそろと身を起こした。
――何も今乗らなくても良いんじゃないかな……。
薄明りの中で、秘森さんがすっくと立つ。
「……二日前のあの日、私は学校に残って流体力学のレポートを書いてた。家で宿題をするのが嫌だから、出来るだけ学校で済ませておきたくて」
今日と似たような話だ。
「それほど時間はかからなくて、夕方にはレポートが完成した。もし教官室にいなかったとしても部屋の前の提出箱に入れておけばいいと思って、先生の部屋の前まで行った。ドアの覗き窓は暗かったけど誰かの気配がしたから、どうせなら直接手渡しをしようと思って、ドアを開けたら――」
得体の知れない何かが飛び出してきそうで首をすくめる。
「先生の代わりにいたのは五十嵐さんだった。机の前でシャーペンを構えて、何か書きこんでたみたいだった。左手に、先生の細長い手帳を持って」
――ああ、そういうことか。
細長い手帳とはいわゆるエンマ帳のことだ。
試験の点数を書きこむほか、先生によっては授業中に居眠りしていたかどうかまで記録しては、最終成績に加味したりする場合もある。
年配の教授が多いため、まだまだアナログ管理は現役だ。
わが校の赤点は六十点なので、そこに書かれた最終的な点数が六十を切ってしまえば留年となる。
「五十嵐さんは今見たことを黙っているよう私に言った。そうすればあなたの点数も書き換えてあげるからって。だけど断った。私が赤点ギリギリなことが分かっていたみたい」
「えっ、秘森さん赤点ギリギリなの」
「ええ」
すました顔で頷かれる。
見た目からして頭がいいタイプだと思っていた。
「それで、私が先生にバラすと思ったようだった。話があるからと私の手を掴んで、急いでどこかに連絡してた。そこから桐谷さんたちも来て、あのプールに連れて行かれたわけ。
……どうやら、教官室に先生がいなかったのは、勉強を教えてほしいからと桐谷さんたちが先生を教室に呼び出したからだったみたい」
「じゃあ、これは三人が計画的に……」
「なんでプールなんだ?」
極太の皺を眉間に刻んだ田上君が訊く。
「校内にはまばらだけどまだ人がいたもの。うちには水泳部がないし、放課後のプールに用がある人なんて誰もいないでしょう。ましてや人魂の噂が出始めていた時期だから余計にひと気がなかった」
「校舎の窓からは丸見えだよね?」
「赤点を取る人の計画性なんてそんなものでしょう」
しれっと秘森さんが言う。
その発言はブーメランじゃないのか。
「……それで、みずきたちはお前に何をした」
「みんなが口々に脅してきたけど、要約すれば『バラさないと約束しなければ痛い目を見る』ってこと。敢えて密告しようとは思っていなかったけれど、その時間帯に私がレポートを提出したことを先生が知っているだろうから、何か訊かれたときには正直に答えるつもりだった。
そしたら五十嵐さんは、あなたの名前を出した」
「俺?」
田上君が目を丸くする。
「襲わせる、と。あなたは五十嵐さんにベタ惚れだからそれくらいやってしまう人だと言ってた」
田上君が言葉に詰まる。
みるみる顔が赤黒くなった。
「……それとこれとは話が違う」
しかし、実際こうして秘森さんに接触してきた。
狼狽したように視線を落とす彼にもその自覚はあるだろう。
その事実をあえて指摘するほど、僕たちは嗜虐的ではないけれど。
「だから私は五十嵐さんたちに忠告した。絶対私に危害を加えないでと。不幸な目に遭うだけだから」
そういえば僕がここに来る前も「五十嵐さんの要求に対して秘森さんは忠告した」と言っていた。
話の流れを見る限りでは相手を怯ませるためのブラフにしか思えない。
「手を出したら改ざんをバラすってか?」
「それは彼女たちの行いに対する当然の結果であって、不幸じゃない」
おそらく五十嵐さんたちも田上君と同じ勘違いをしたのだろう。
脅した相手に挑発されたと思った彼女たちは、三階にいた僕にさえ聞こえる声で罵倒した。
だとしたら、彼女の言う『不幸』とは何か。
「勿体つけやがって。はっきり言いやがれ」
「……私には『憑いてる』」
至って真面目な表情で彼女は言った。
「だから危害を加えようとする人はひどい目に遭うの」
「はあぁ?」
間髪入れず敵意むき出しの合いの手が入る。
彼女はにこりとも笑わなかった。
だいぶ愛想のない説明だが、彼女なりに自分を見守る白猫の存在を感じ取っているらしい。
しかし、田上君はそう捉えなかった。
「ふざけんな」
岩を彫ったように武骨な手が拳をつくる。
甲には赤い火傷の跡があった。
「それでお前のこと信じろってか? みずきが悪くてお前がツイてるから天罰が下ったって? だから百瀬のせいじゃねえって、そんな馬鹿な説明でごまかせるだろうとかマジで思ってんのか?」
「ごまかしてない。私は本気で――」
「じゃあ馬鹿にしてんのか!」
夜闇にひときわ大きな怒声が響く。
僕が彼女なら腰を抜かしているだろう。
秘森さんも内心はひどくショックを受けているかもしれないが、表面上はただ涼やかに、一度だけ瞬きをして受け止めるのみだった。
刹那、風が吹く。
肌に冷えた尾を滑らせるような感触だ。
麝香が体温を纏ってほのめく。
思考を巡らせるより早く、ふつふつと鳥肌が立った。
頭上の猫が跳躍する。
「あっ……!」
優美な曲線を描いて宙を舞う。
狩猟者の美しさを凝縮したような姿だ。
それが目の前の田上君の顔と重なって、押し倒されるように彼の身体がプールへと傾く。
「田上君っ!」
水しぶきの咆哮が上がった。
田上君が沈んでいく。
手を水面へと伸ばしながらも、頭は押さえつけられているように水底を向いている。
揺らぐ仄暗い水の中で、白い影がちろちろとまとわりついていた。
二度目の水しぶきが上がる。
秘森さんだ。
水中を滑るように進んで田上君へと向かう。
細い手が彼の腕をつかんだ途端、いとも簡単に田上君の身体は浮上した。
見えない水の檻が開いたかのようだ。
鬼の形相が水面から突き上がる。
犬歯をむき出して酸素をむさぼる。
野太い声で咳き込んではいるが、無事だったようだ。
「だ、大丈夫?」
田上君の背中から白猫がよじ登って顔を出す。
耳を寝かせたまま、両手で田上君の頭を抱きかかえるようにしがみついた。
きゅうっと顎を引く仕草をしたあと、彼の頭頂部にがぶりと噛みつく。
――怒ってる……?
がぶがぶと噛み続ける猫を乗せたまま、田上君たちはプールサイドにたどり着いた。
泡を食ってただ見ているだけの自分が情けない。
慌てて手を差し出して、ひとりずつ引き上げる。
さきほどの田上君とはちょうど逆の立場というわけだ。
秘森さんはさすがに疲れた様子でぺたりと座っていた。
びしょ濡れの田上君は頭を垂れたまま、膝に手をついて咳き込んでいる。
呼吸は徐々に落ち着くも、愕然とした表情は変わらない。
今までの考えと今起こった現象との間に折り合いをつけられずにいるのだろう。
その頭上ではまだ白猫が、忌々しそうに頭を噛んでいる。
「うぇっ、頭いってえ……」
「やっぱそうだよね」
顔色の悪い田上君の後頭部から毛むくじゃらの手が伸びて、額をぱしぱしと叩き出す。
出しっぱなしの爪が目を引っ掻かないうちに、僕は両手で引っぺがした。
――あ、結構普通の猫っぽい。
ふわふわとした毛は全く濡れていない。
霊独特の底冷えするような冷たさではなく、初夏の風に似た涼やかな手触りだ。
たらんと伸びた宙づりの猫が、まん丸の目で僕を振り返る。
完全に耳が寝ていた。
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