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「あ、ごめ……危ないかなと思って、つい」
言い訳をしてそっと下ろす。
四肢がコンクリートに着いてもなお白猫の耳はぺたんこだった。
幽霊でも見たような顔で何度も振り返りながら、秘森さんのそばへと逃げていく。
ようやく彼女の足の影に隠れたところで、強気な態度で『うなーお』と鳴いた。
尻尾はまだ開いたススキ状態だが。
よほど触られたことが応えたらしい。
「今何したんだ? いきなり頭痛消えたぞ」
「よかったね」
「百瀬君……見えるの?」
曖昧にしておきたかったのだが、秘森さんがストレートに訊く。
「見えてるのよね? しかも、止めてくれた」
「えっと、まあ……」
このことは隠しておくつもりだった。
碌な目に合わないからだ。
母に何度となく打ち明けてはきた。
しかし幼稚園のころは笑って受け流され、小学生のころは困惑されて、中学生になったときには病院に連れて行かれた。
父には話してすらいないし、兄弟もいない。
恐る恐る、二人の反応をうかがった。
「……ありがとう」
ため息をつくように秘森さんが言った。
「止めてくれて、ありがとう」
アーモンド形の美しい目に光の粒がきらめいた。
どんなときにも不変だった無表情がほのかに色づく。
「見えるって何だよ? 人魂の正体は金属ナトリウムなんだろ?」
「人魂はね。あなたを突き落としたのは本物のほう」
「ほ、本物ぉ?」
田上君が急に不安げな様子で辺りを見渡した。
当然ながら見えてはいないようだが。
「……昔からこうだったの」
秘森さんがうなだれる。
その視線の先に、するりと白猫が進み出た。
「私をいじめた子は必ず不慮の事故に遭う。ひどいイジメならまだしも、クラスメイトが少し悪口を言うだけで次の日には怪我をしてた。あまりにも続くから怖がられ始めて、私に関わろうとする人はいなくなった」
彼女の言葉が分かっているのかいないのか、猫は真っすぐに秘森さんを見上げる。
「イジメはなくなって、友達も消えた。腫物扱いに耐えてようやく進学して、人間関係をリセットできたと思っても、結局は同じことの繰り返し。
不幸が起こる前にと思って忠告したけれど、誰も信じてくれなかった……五十嵐さんだって、さっきの田上君だって」
秘森さんの昏い目は猫を映さない。
映さないまま涙が滲む。
白猫はそんな姿を、祈るように見つめ続けていた。
いつかあの目が自分に向けられるかもと期待しているかのようだ。
「……今までずっと、ひとりだったんだね」
僕は声をかけた。
秘森さんに。
そして白猫に。
「ごめん……僕、大したことができなくて」
祓うことも成仏させることもできない。
彼女に視えるようにしてやることすらできない。
「ううん。私は、助けられた」
「でも五十嵐さんに大変なことを――」
言い終わるのを待たずに秘森さんが首を振る。
「百瀬君がどれほど慎重に危険を回避しても、どのみち五十嵐みずきは別の方法で不幸になってた。田上君を見たでしょう? 百瀬君の人魂がなければ彼女は今ごろ溺死していたかもしれない」
「そんなに強いの……?」
しなやかで小さくて、とてもそんな大悪霊には見えない。
困惑していると田上君が訊いた。
「で、そいつにどんなバケモノが憑いてるって?」
「猫だよ」
「なんだネコって」
「あの、ニャーって鳴く方の」
「鳴かない方のネコなんか知らねえわ」
なぜ訊いたのか。
「マジで言ってんのかよそれ。俺、猫に負けたのか?」
「……ただの猫じゃない」
秘森さんの口調は深刻だった。
「どういうこと? 最期まで飼ってた子じゃないの?」
そういう守護霊を連れた人ならばよく見かける。
確かにそう言われれば、秘森さんの白猫は今までに見てきた動物霊とは雰囲気が異なる気もした。
「ペットを飼ったことは一度もない。九年前にたまたま魅入られて、神社に行ったらお祓いを断られた」
「どうして?」
「祓えないからよ。神主が言うには、もはや神の部類だからと」
「神さま……?」
秘森さんの足元を見る。
ちんまりと寄り添う姿は愛らしく、神のイメージとは結び付かない。
霊独特の冷え冷えとした感じがしないところは確かに異質ではあるのだが。
僕の視線に気が付くと、白猫は半眼で睨んだままのそりと尻を浮かせた。
どうも抱き上げてからというもの、あまりいい印象を持たれていないらしい。
「その神主には『魅入られたんだろう』と言われた。神様と言っても色々とあるみたいで、信仰する人がいなくなって弱っていたところに、何も知らない私が不用意に近づいたせいだろう、って」
神でもそんなことをするのだろうか。
まるで、幽霊が取り憑くような。
けれど秘森さんに寄り添う白猫を見て、僕はなんとなく理解した。
あの子はただ、シンプルに秘森さんが大好きなのだ。
「好きな人を守りたかっただけなんだと思う。悪気はなかったんだ、やり方を間違えただけで。きっと話せばわかるよ」
「猫と? どうやって」
投げやりな口調だった。
ここに至るまでにはいろいろとあったのだろう。
「分からないけど……でも昔僕の家にも猫がいてさ、家族として、言葉は分からなくても仲良くやれてた。赤ん坊だってそうじゃないか、言葉が通じなくても心を通わせることはできるよ。不便だけど不可能じゃない」
「赤ん坊は目で見えるでしょう」
「けど、僕がいるじゃないか」
霊なんか視えなければいいのにと数えきれないほど思ってきた。
僕は不幸だった。
恐怖に耐えた日々は今このときのためにあったのだと、今は思いたい。
「これからは大丈夫だよ、秘森さんの代わりに僕が視ればいい。それに僕や田上君なら事情だってすっかり分かったからその手の相談にも乗れるし。だよね?」
「お、おう」
目を丸くした彼は、ばつが悪そうに顔を顰めた。
「俺には視えねえけど、あんな目に遭えば信じざるを得ないっつーか。
さっきまではぶん殴ってやろうかと思ってたけど、色々確かめたいこともできちまったし、秘森の言った通りなら誠心誠意謝るしかねえと思ってる」
じっと田上君を見据えていた白猫が、ぴくぴくと髭を蠢かした。
目つきも先ほどより丸みを帯びている。
「ほら。ひとりで抱え込んで苦しかったことでも、三人で分け合えばきっと大丈夫だよ」
「……百瀬君がそれを言うの? 死にたがってたあなたが」
感情の薄い顔が問う。
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