ヴィラーグ・サーラム ぼくの花

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 寂れた街でおれはギターを弾く。兄貴が遺したデュポン社のセルマー・マカフェリギター。  昼なのに薄暗い場末のバーで、観客はいつもひとり。二つ上のくるみは兄貴の彼女だった人。くるみに言われなきゃこんな酔狂なことはしない。 「ミヤビ、今日も超ヘタだったね」  くるみが笑顔で見上げてくる。スルーしていると薄い小石みたいな形をしたピックを取り上げられた。 「返せよ」 「ピアノは弾けるのに、なんでギターは上手くならないんだろ」 「それ以上言ったら二度と弾かない」  おれは拗ねたふりをしてギターをスタンドに置いた。「ごめんごめん」とくるみが腕を回してくる。やわらかな髪からふわりと甘い香りが立つ。  くるみの腕を肩に乗せたまま、ピアノ椅子に腰をかけた。年季の入ったグランドピアノで兄貴のオリジナル曲を弾く。ノスタルジックなメロディと変拍子の複雑なリズムがからみ合う。 「なんだ、ピアノなら弾けるんだね」 「当然だろ」 「あ、俺様になってる。その鼻へし折ってやろーっと」  くるみは「ていっ」とおれの顔にチョップを繰り出した。難なくかわして鍵盤を叩く。 「あ、そこ好き。ソロ弾きの早いとこ」  右手の高音域でトレモロを続けた。ラの音はどれだけ調律しても合わない。それも愛嬌だな、と兄貴はよく言っていた。  くるみはピアノにもたれかかってうっとりした表情を見せた。おれはその横顔を見ながら兄貴の音色を想像する。  あの小さな耳に届いているのは、おれのピアノじゃなくて兄貴のギターだ。亡くなって二年が経つけれど、これまでもこれからも、ずっとそうだってことはわかってる。  弾き終えて唐突に蓋を閉めた。彼女は夢から引き戻されたみたいな顔でふてくされる。 「なによー、もう一曲くらい弾いてもいいじゃない」 「おれは忙しい」 「コンテストはしばらくないんでしょ。課題がたくさんあるの?」 「お、れ、が、忙しいって言ってんの」  ピアノクロスで鍵盤をひと拭きし、荷物をまとめた。兄貴のギターは手脂が残らないよう慎重に扱う。 「明日も来てくれる?」  くるみはおれのざらついた指をそっと撫でた。腰骨のあたりから背筋にむかってぞわりとするけれど、理性でふり切る。 「それはギャラ次第」 「今日の分もまだだったね。じゃ、前払いで」  おれの腕を引き寄せて頬に二回、キスをした。音だけの軽いやつだ。それでも心臓が跳ねるから嫌になる。 「じゃな、腹出して寝るなよ」 「お昼前なのにそんなことしませんよーだ」 「昨日してたくせに」  ギターケースを担いで彼女のへそを指さすと、顔を赤らめてセーターのすそを引っ張った。その仕草にまた欲望の虫が疼きだす。  地上に続く階段を登りかけて、踵を返した。くるみは手を振っていたけれど、その手を引いて口づける。  何も言わずに店を出た。もう二回も寝たんだから、何を照れることがある。  重いギターケースを抱えたまま、大学への道をかけていった。
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