ヴィラーグ・サーラム ぼくの花

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「またギター弾いてんのか。教授に怒られるぞ?」  同期の小林がおれを見るなり言った。アップライトピアノを置いた練習室は陽射しで満ちている。  大学は春休み中だけれど、三月末に次年度のクラス分けテストがある。語学にソルフェージュ、ハーモニーといくら時間があっても足りない。こいつと会話する時間も惜しいくらいだ。  テスト用の譜面を広げると小林が隣に座った。おれの手をつかんであきれたような声を出す。 「何時間、弾いてんだよ」 「明けても暮れてもに決まってんだろ」 「ピアノじゃなくてギターだよ」 「ほっとけ」  手を振り落として課題曲を弾き始めた。小林はしつこくにらんでくる。 「ミヤビの兄貴が天才的なギタリストだったってことは、俺でも知ってる。でもミヤビにギターの才能はない」 「言われなくても知ってるよ」 「またあの女の毒牙にかかってんのか」  小林はわざとらしくため息をついた。  ──ピアノ科一年のハルマミヤビは入学早々ホステスに引っかかり、情事にうつつを抜かしている。  おれにしつこく絡んできた女学生の一人が、そんな噂をまいたらしい。真に受けた小林が真偽を確かめにきたが、半分は本当で半分は間違ってる。  あのバーはくるみの実家だ。料理は美味いが、硬派な客ばかりで色気の欠片もない。幼なじみのくるみはホステスじゃなくて父親を手伝ってるだけだ。 「俺は兄貴の代わりに出入りしてるってだけで……」 「じゃあもう、こんなことやめろよ」  小林はおれの手を軽く叩いた。皮の剥けた指先が情けなく揺れる。 「女じゃないなら、死んだ兄貴のために弾いてるのか」 「……さあな」  指を手のひらに折り込んで握った。ほどいた指を鍵盤にそろえてピアノソナタの続きを弾き始めると、小林が即興で低音域のパートを鳴らした。  脳裏に兄貴の音色が蘇った。感情が焦げついたようにチリチリとする。  兄貴もよくおれのピアノに合わせてギターを弾いた。年は四つ上、クラシック一家なのに譜面を読むのが大嫌いな彼は、音大には進まずギターばかり弾いていた。幼い頃からずっと目標でいつか勝ちたい相手だった。  ギターはだめでもピアノだけは絶対に負けたくなかった。いつか「ミヤビには勝てないよ」と言わせたかった。  けれど死んだ。東欧のツアー中、ビル火災に巻き込まれて遺骨とホテルにあったギターだけが帰国した。  くるみは泣いた。毎日泣いた。おれのピアノは何の慰めにもならなかった。  死んだら勝負もくそもない。おれはくるみに言われるままにギターを弾き始めた。ピアノで音大を目指しているのにバカだと思ったけれど、弾けばくるみは笑ってくれた。  小林の手が止まった。おれは気にせず譜面を追いかける。 「おまえ……いつになったらあきらめるんだ」  何を、と問いかけてやめた。小林は人差し指で一音ずつ低音を鳴らす。 「俺……ミヤビのピアノ、好きなんだけどな」 「男に言われても嬉しくねえな」 「じゃあもっと言ってやるよ」  小林は薄く笑った。やわらかな風が手の甲をなでたけれど、空虚な音色が指からこぼれるだけだった。
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