ヴィラーグ・サーラム ぼくの花

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 その夜、おれはバーでリクエストされた曲を弾いていた。  春が来るのにどうして心は浮き立たないのだろう、それはきっと誰もおれを必要としないから。そんな歌詞を思い浮かべながら鍵盤を叩く。  カウンターの中でくるみの父がドリンクを作り、彼女がテーブルに運ぶ。週末はくるみが厨房に立つこともある。接客も料理もできないおれは言われるままにピアノを弾く。  今夜の客は男が二人、男女のカップルが一組だ。客からリクエストがあれば何でも弾く。大学の専攻はクラシックだけれど、ジャズやポップスを弾くのもいい勉強になる。  元々は兄貴が毎夜このステージに立っていた。おれはその代わりだ。  兄貴はピアノも上手かったし、リクエストされれば歌うこともあった。おれはピアノしか弾けないし、くるみを慰めることもできない。  雨が降っているからか客足は鈍かった。冷やかし程度のリクエストを消化すると夜の十時には客がいなくなってしまった。おれとマスターは顔を合わせて苦笑いする。 「あの、おじゃましてよろしいですか」  三十代半ばの男が濡れた小包を抱えて入店した。おれを見て微笑んだのは兄貴のマネージャーだった岸さんだ。 「ミヤビくん、ちょうどよかった。これを君とくるみさんに渡したくて」  言うなり上着の袖で小包を拭って開封した。異国の文字で綴られた手紙とCDアルバムが姿を現す。 「リョウ……」  くるみの手が透明のケースに触れた。ジャケットに映るのは確かに兄貴だった。タイトルは手紙と同じハンガリー語で書かれている。    爪先が揺れてケースに当たる。マカフェリギターを抱えた兄貴が目の前にいる。 「岸さん……何これ……」 「最期のレコーディング音声がハンガリーのスタジオに残ってたんだよ。ようやくマスタリングが終わったらしくて、事務所に二十枚ほど送ってきてくれたんだ。どうしても最初に君たちに渡したくて」  岸さんはおれとくるみに一枚ずつアルバムを差し出した。薄っぺらなプラスチックケースなのに、ずしりと重い。  くるみはもう泣いていた。指が震えて受け取れないので、おれが代わりに預かった。 「こんなの……今更」 「そんなこと言わずに聞いてよって、リョウなら言うかな」  彼は小包を閉じると「じゃあ僕はこれで」と早々にバーを後にした。くるみの嗚咽する声が静かに響く。 「……聞く?」  くるみは涙をこぼしながら首を振った。マスターは黙ったままうつむいてグラスを拭いている。  ──聞いてよミヤビ、くるみ。新しい曲ができたからさ。  不意に兄貴の声が聞こえた。新曲の披露はいつもこの店だった。面倒くさがるおれのそばに笑顔のくるみがいた。  ジャケットに映った兄貴がマカフェリギターを弾いている。アコースティックギターと比べてサウンドホールが小さく、ピックアップが縦に長い。少し憂いのある表情でどこかを見つめている。  裏には赤い小さな花と緑色の房のある植物が描かれていた。 「くるみ、少し時間くれないか。三時間……いや二時間で戻るから」 「どうしたの?」 「兄貴の曲をコピーしてくる」  例のギターを担いで店を出ようとすると、くるみが腕を引いた。 「雨降ってるし……ここにいなよ」 「でもここじゃ……」 「ここでやってもいいよね、お父さん」  カウンターにいるマスターが小さく頷いた。おれはイヤホンを取り出し、カウンター席の隅に座って表題曲の音取りを開始した。  懐かしい音色に胸がつぶれそうになるけれど、音を拾うときは感情に蓋をする。曲の構成と小節数を確認し、変拍子の箇所を譜面に書き込みながら和音を埋めていく。  続いてピアノでメロディを取り始めた。メロディアスな冒頭から急激に高速パッセージに突入し、神経を研ぎ澄ませる。兄貴の超絶技巧をギターで再現するなんて寒気しかしないけど、くるみに聞かせるならピアノじゃ意味がない。  作業に没頭する間、何人かの客が入っては出て行った。時々くるみの視線を感じたけれど、接客はいつもと変わらなかった。おれが刻むリズムに手拍子を合わせる客もいたが、誰も話しかけてはこなかった。  地上に続くドアが開くたび、春の気配を乗せた生ぬるい風が鼻先をかすめた。
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