ヴィラーグ・サーラム ぼくの花

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 二時間と少しが過ぎた深夜0時。おれはギターを持ってステージに上がった。  マスターはスポットライトをつけてくれた。今夜の観客はくるみとマスターの二人だ。拍手をする彼女におれは「下手だけど」と苦笑いする。 「聞いてください。タイトルは『ヴィラーグ・サーラム』」  ギターを構え、ゆったりとイントロを弾き始めた。リズムはロマ音楽、旋律は日本の民謡音階。この頃、兄貴が目指していたのは日本の伝統音楽とジプシーたちのロマ音楽との融合だった。  どこか懐かしさをおぼえる旋律に情熱的なリズム、異国の音楽なのに自然と体が動く不思議な鼓動。見えるのは遥かなる異国の大地に花開く日本の桜だ。国境を超えた音色の融合におれは没頭する。  中盤からは軽やかなメロディとは裏腹に、ギターの超絶技巧が繰り返される。おれだって幼少期からギターを弾いてきた。街中で垂れ流される大衆的なギターより弾ける自信がある。  けれど兄貴のテクニックには到底及ばない。指が引きつれそうなくらい必死に弾いても、元のリズムから遅れてしまう。仕方なくいくつも音を省略するけれど、それでも追いつけない。  ピアノなら弾けるのに、という考えは一切捨てる。ギターで弾かないと意味がない。兄貴にはなれない、くるみは笑ってくれない。  顔色をうかがう余裕もなくひたすらに弦をはじく。マカフェリギターのピックは重く分厚い。指に負担がかかるからやめろと小林の声が聞こえる。わかってるよ、おれだってこんなこと早くやめたい。  けれど兄貴のメロディがおれを駆り立てる。  ──ミヤビ、こんなもんじゃないはずだ。おまえはもっと進める。めげるな、あきらめるな、前へ前へ──  最後の和音を弾き終わり、深く息を吐くとマスターが拍手をした。深夜の音色は耳の奥に重く気だるい響きを残す。  震える指先をこぶしの中におさめて顔を上げた。くるみは泣いていなかったし、笑ってもいなかった。 「やっぱ……ダメだよな、兄貴じゃないと」  苦し紛れに言って立ち上がると、くるみは「違うの」と腕を引いた。 「そりゃ違うだろ、おれと兄貴じゃ……」 「ミヤビとリョウは違う。どんなに背格好は似てても音色は全然違う。けど、もしかしたら……ミヤビがそのギターを弾けばあの音色がまた聞けるかもなんて思って……ごめんなさい」  腕を握ったままくるみは涙を落とした。笑ってほしいだけなのに、どうしていつもこうなるんだろう。彼女の熱い涙がおれの手の甲を濡らす。 「ミヤビ……ごめんなさい……」 「おれこそ、下手でごめん。ちょっとは上達したつもりだったんだけど。次はもっと上手く弾くからさ」 「もういいの」  くるみは顔を拭った。小さな鼻が赤くなっている。 「ミヤビがそのギターを弾いてると、リョウはいないんだって実感できる気がした。そんな気がして……ごめんなさい。リョウはどこにもいないって……わかってるのに」  そんなつもりで弾いたんじゃない。おれはくるみのために、と言いかけて喉がつまった。本当にくるみのためなのか、おれが満足したいだけじゃないのか。  くるみは微笑んでいた。おれが欲しかったのはこんな笑顔じゃない。  不意に初めて彼女を抱いた夜を思い出した。異国から急死の知らせが来て一年半、おれたちは兄貴が恋しかった。お互いの中に潜んでいる兄貴の姿を嫌になるほど探り出そうとして、何度も衝突して慰めあって傷つけあった。  おれはずっとくるみが欲しかった。兄貴が心に棲みついたままでいいから、丸ごと彼女をかっさらいたかった。  気が狂ったような情事のあと、彼女はこんな風に微笑んでいた。おれは兄貴の代わりだってわかってた。  それでもかまわなかった。二度目は少しも躊躇しなかった。  その夜、くるみは泣いていた。素っ裸でもつれあったなれの果てに重苦しい夜がのしかかった。おれたちは兄貴がいなければ心をどこに持っていけばいいのかわからなかった。  くるみはおれの手からそっとギターを取った。 「ミヤビはリョウじゃない。もうギターは弾かなくていいから……これからはミヤビの音楽を奏でて」  ギターをスタンドに立てかけておれの手をじっと見た。バカみたいに弾き続けた末、皮が剥けてボロボロになった指。震える指先がくるみの涙で濡れる。ギターを弾くたびに痛んだのは指じゃない。胸が、痛い── 「くるみ……おれ、ギター弾きたい……」 「もう弾かなくていいってば」 「いやだ弾きたい」  涙で熱くなったまぶたを見られたくなくて彼女にしがみついた。子供みたいに泣きじゃくる俺の頭を優しくなでてくれる。 「ミヤビは欲張りだね……私なんてどっちも弾けないのにさ」 「……もういらない」 「え……?」 「どっちもいらない。おれが欲しいのは」  顔を上げるとくるみのまつ毛が目の前にあった。薄茶色の瞳に俺が映っている。 「ミヤビが欲しいのは……何?」 「くるみ」  おれは彼女のくちびるを塞いだ。熱い吐息が混ざり合い、一回では飽きたらず何回も口づけた。彼女の口腔内は熱くぬめって涙の味がした。  いつの間にかマスターはいなくなっていた。少し開いた勝手口の上から雨の湿った匂いがする。兄貴が生きていた頃と同じ、甘く爽やかな花の香りが混じっていた。  ギターの音色が耳の奥でリフレインする。兄貴がいる、おれが鍵盤を叩いている。がむしゃらに追いつこうとして自分の音色を見失ってた。そんな日々に懐かしさをおぼえるなんて、情けなくて恥ずかしくて、でもそれを取り除いたらおれじゃなくなる気がした。  くるみと目を合わせて笑った。握った手は冷たかったけれど、抱きかかえた体は温かだった。欲情とは少し違うところに穏やかな感情が眠っている。この気持ちを伝えるにはどうしたらいいんだろう。 「くるみ……おれのピアノ、聞いてくれる?」 「もちろん」  優しく微笑んだ彼女を椅子に座らせて、ピアノの鍵盤に向かった。弾くのは表題曲の『ヴィラーグ・サーラム』だ。ジャケットの表はハンガリー語で、裏には日本語訳で『ぼくの花』と書かれている。描かれた植物はきっとくるみの花なんだろう。  いいよな兄貴、おれが弾いてもさ。  勝手口から漏れ出す雨の音と、こぼれ落ちる雫のようなピアノのメロディ。兄貴が作った旋律に少しずつおれの音色を混ぜていく。オリジナルの良さを残したまま、ピアノ独特の低音を響かせて大地のようなリズムでベースラインを弾く。  くるみが手拍子を取ってくれた。彼女は鼻のてっぺんを赤くして笑っていた。
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