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それから数カ月後、おれは二年生に進級せず空港のロビーにいた。搭乗手続きに向かっているのに、くるみがついてくる。
「私も行くからね」
「おれ一人でいいって言ってるだろ」
「一緒に行くの!」
「くるみまで出国したらマスターが泣くぞ」
「いーやーだー行くー!」
おれはため息をついて電光掲示板を見上げた。搭乗手続きの時間が迫っているのに彼女は腕を離そうとしない。
大学を休学するにあたり両親から猛反発をくらった。兄貴の新譜を渡してから、どうしても行きたい場所があると説得を繰り返した。小林は渋い顔をしたけれど、ピアノの修行だと言ったら背中を押してくれた。アルバムをくれた岸さんは号泣してしまって、おれとくるみで慰めるはめになった。
おれは見てみたかった。兄貴が暮らした土地や、遥か遠い東欧の片隅にある町を。現地で音楽を聞きたい、そこに暮らす人々の様子を知りたい。どんな風に楽器を奏でるのかこの目で確かめたい。その想いはあの夜から日に日に募って、抑えられないくらい大きくなった。
搭乗手続きの最終アナウンスが流れ、くるみの頬をなでた。
「戻ったら最初にさ……くるみにピアノを聞いてほしいんだけど、いい?」
口説き文句のつもりだったのに、彼女は俺が背負っているギターケースをじっとにらんだ。
「いいんだけど、どうしてリョウのギターを持ってくの」
「……もはや一心同体っていうか」
彼女は笑い声を漏らした。初夏の木漏れ日を浴びる新しい笑顔に、心が軽くなる。
「現地ですごいギタリストを探してくるよ。兄貴が地団駄を踏むほどの人をさ」
「それはいい考えだね。私も見たい、リョウのくやしがる顔」
「だろ? おれはギターが下手だからな」
「そんなことないよ。私はミヤビのギターが好き」
ピアノはもっと好き、と背伸びをしておれに優しく口づけた。抱き寄せたい気持ちをこらえて髪をなでる。
ケースを背負いなおして搭乗手続きに向かった。くるみはもう追ってこない。振り返らず真っすぐ前を向いて歩いていく。
遥か海の向こうで混ざるマカフェリギターとピアノの音色。
そっと寄り添うくるみの花。
ただそれだけを思い浮かべて。
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