ヴィラーグ・サーラム ぼくの花

5/5
前へ
/5ページ
次へ
 それから数カ月後、おれは二年生に進級せず空港のロビーにいた。搭乗手続きに向かっているのに、くるみがついてくる。 「私も行くからね」 「おれ一人でいいって言ってるだろ」 「一緒に行くの!」 「くるみまで出国したらマスターが泣くぞ」 「いーやーだー行くー!」  おれはため息をついて電光掲示板を見上げた。搭乗手続きの時間が迫っているのに彼女は腕を離そうとしない。  大学を休学するにあたり両親から猛反発をくらった。兄貴の新譜を渡してから、どうしても行きたい場所があると説得を繰り返した。小林は渋い顔をしたけれど、ピアノの修行だと言ったら背中を押してくれた。アルバムをくれた岸さんは号泣してしまって、おれとくるみで慰めるはめになった。  おれは見てみたかった。兄貴が暮らした土地や、遥か遠い東欧の片隅にある町を。現地で音楽を聞きたい、そこに暮らす人々の様子を知りたい。どんな風に楽器を奏でるのかこの目で確かめたい。その想いはあの夜から日に日に募って、抑えられないくらい大きくなった。  搭乗手続きの最終アナウンスが流れ、くるみの頬をなでた。 「戻ったら最初にさ……くるみにピアノを聞いてほしいんだけど、いい?」  口説き文句のつもりだったのに、彼女は俺が背負っているギターケースをじっとにらんだ。 「いいんだけど、どうしてリョウのギターを持ってくの」 「……もはや一心同体っていうか」  彼女は笑い声を漏らした。初夏の木漏れ日を浴びる新しい笑顔に、心が軽くなる。 「現地ですごいギタリストを探してくるよ。兄貴が地団駄を踏むほどの人をさ」 「それはいい考えだね。私も見たい、リョウのくやしがる顔」 「だろ? おれはギターが下手だからな」 「そんなことないよ。私はミヤビのギターが好き」  ピアノはもっと好き、と背伸びをしておれに優しく口づけた。抱き寄せたい気持ちをこらえて髪をなでる。  ケースを背負いなおして搭乗手続きに向かった。くるみはもう追ってこない。振り返らず真っすぐ前を向いて歩いていく。  遥か海の向こうで混ざるマカフェリギターとピアノの音色。  そっと寄り添うくるみの花。  ただそれだけを思い浮かべて。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

25人が本棚に入れています
本棚に追加