1人が本棚に入れています
本棚に追加
5
吐き気はいつも以上に酷く、目眩は確実に視界を奪いに来ていたが、倒れてしまえばきっと彼はいなくなるかもしれない。最後に言いたい言葉があった。
音を立てて装置の扉が開いた。倒れるように出てきたが、腕を床についてすんでのところで止まった。
「え、何で……」
リエラの声が聞こえる。壁に手をつきながら、何とか立ち上がった。彼はギアに近寄った。
「どうしたの? 何か、忘れ物?」
「えっと……」
ぐらぐらと揺れる視界はリエラを上手くとらえられない。しかし、そこに確かにいた。
ギアはリエラに手を伸ばし、もたれかかるように抱きついた。
「え、な、なに……!?」
リエラは困惑し、行き場のない手は宙をさまよう。ギアは優しく、強く抱きしめた。
「どうしたの……?」
「……」
こうして会ってみれば、何を話せばいいのか分からない。リエラは昔の記憶を無くしている。ギアもほとんど持っていない。持っているとしたら、さっきの……さっき、会った時の……。
(リエラは、あの時、どんな顔だった? 確か、確か——)
「暗い顔、してたから」
「え?」
「俺が、帰る時。何で……?」
「……」
リエラは黙って、黙り込んで。それから、ぽつりぽつりと話始めた。
「……君を見てると、すごくほっとしたんだ。温かくて柔らかい手も、表情の動き方も、瞳の揺れ方も……安心した。だから、少し寂しかった、のかな? 僕もよく分からないや……」
言葉は段々弱くなり、地面に落ちていった。ギアは、リエラから少し離れて、その手を取った。リエラの手を包むように。
「……温かいね」
「うん」
「柔らかくて……生きている」
それは、人間だけの。
「僕は、君の手が好きかもしれないな」
「だろうね」
「うん」
今度はリエラがギアを抱きしめた。その肩口に頭を置いた。
「……僕ね、昔の記憶が少しだけあるんだ」
ギアはリエラの背中に手を回そうとしたが、思わず止まった。
「と言っても、一瞬だけ。誰かが僕を抱いていた。その人はもう動かなかったけど……段々、冷たく、固くなっていった。それがものすごく怖かった。僕は、柔らかくて、温かいものは大好きだったけど、固くて冷たいものは大嫌いだった。機械も、ヒューマノイドも……体温が調節されていたとしても、元は冷たい機械だって思ったら、怖くて……。
でも、よかった。最後に、温かいものに触れられて。ありがとう」
リエラは心の底から安堵した。そして、ギアもまた、ほっとした。苦い記憶を持っていたのは、自分だけで。
「ギア。君は、いつ死ぬの?」
「今日」
「僕もだ。じゃあ、僕らすぐに会えるね」
「何で?」
「人間は生きる時間が短い代わりに、死んだ後が長いんだよ。死んだ後の世界で、ずっとずーっと生きられる。僕らは、またそこでたくさん生きられるよ」
「それって夢とは違うのか?」
「違うよ。僕らは死ぬとき夢は見ない。代わりに、別の世界へ行くんだよ」
「それって……ヒューマノイドも行けるのか?」
ギアはリエラの肩を掴んで、彼の体を引き離した。リエラはうーんと考える。
「どうだろう。天国があるのは人間だけだから」
「でも、あいつらは人間と同じくらいしか生きないって決めてるんだ」
「何で?」
「人が大好きで、同じように短い時間を生きているから」
「……そう」
一瞬だけ、リエラは呆れたような、複雑な顔をした。でもすぐに微笑みを浮かべた。
「じゃあ、行けるかもね。同じ場所に」
「そ、そうか。良かった」
ギアはほっと胸を撫で下ろした。リエラは、ギアが嬉しそうなのを見ると、心が温かくなった。
「……じゃあ、そろそろ」
「ああ」
ギアは扉の前に向かう。その足取りは軽かった。
「じゃあ、また会おうね。ギア」
「うん」
「会いに来てくれてありがとう」
「うん。会いに来て良かったよ」
「またね」
「また、後で」
リエラは小さく手を振った。ギアは頷いた。
扉は静かに閉じられた。
最初のコメントを投稿しよう!