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ギアの父親はもうすぐ、二十年と言う短い一生に幕を下ろそうとしていた。そしてギアも、同じ時間に死ぬつもりだった。
エドラ、という名を持つ父親は、人間の姿形を持ったロボット(以下、ヒューマノイド)だった。一般的にヒューマノイドに死は無く、寿命が近づけば新しい体に記憶メモリを移す。そして延命し、半永久的に生き続ける。ヒューマノイドに限らず、どの機械もほとんどそうした。
でもギアの住んでいた地域では違った。そこでは、寿命が近づいても新しい体を用意しなかった。皆、そのまま眠るように活動を停止した。ギアは、その理由をエドラから教えられた気がしたが、もう覚えていなかった。
ギアはその朝、いつものように自室で目を覚ました。のそのそと起き上がって、クローゼットに掛けられた服に袖を通す。近くのチェストには花瓶が置かれていた。そこに生けられた花を取って、水を換える。ギア達が死んだら、この花も世話をする人がいなくなって死ぬだろう。他の人に渡さない限り、時間をかけてゆっくり朽ちていく。ギアはそうなる前にこの花を殺すつもりだった。その方が、一人でしなびていくよりも良いだろう。
綺麗になった花瓶の中に、美しい白の花を挿した。カーネーションと言う名前らしい。
ギアの部屋は現代で言うところの1Rだった。部屋の中はゲームだったり、本だったり、彼が好きなもので埋められていた。
彼が部屋の中で本を読んでいると、チャイムが鳴った。それからほどなくして鍵が開いて、外からヒューマノイドが入って来た。彼の父親のエドラだった。
「ああ、起きてるね」
エドラは部屋まで歩いてきて、コートを適当に脱いだ。ギアは本を閉じる。
「エドラ、遺書って書いた方が良いの?」
「遺書?」
「うん。今、心中する人達の話を読んでるんだけど、何か『遺書』って言うのが必要だって」
今まで遺書の話など全くしなかったギアが突然口にして驚いたが、出所を知ってエドラは納得した。よく見れば、ギアが今手に持っている本は確か心中をテーマに書かれた短編集のはずだ。
「アレは自分が死んだあと、誰かに言いたいことがある人が書くものだよ。そういうの、ある?」
「……」
ギアは死ぬことを受け入れていたし、特に大きな抵抗は無かった。だが、たった一つだけ心をチクチク指すものがあった。
それは、まだ子供だった自分が、同じく小さな子供を殴っていた記憶だった。子供に馬乗りになって、頬を殴った。一発殴った段階で誰かに腕を取られて引き離された。そこで記憶は終わっている。
あの子供は誰なのか。殴られた時、その子はどんな顔をしていたのだろう。誰かを殴る記憶なんて、怖くて、嫌で、誰にも話せなかった。
今から夢の在処について調べるのは難しいだろう。もし、自分の死後にあの子供が——今は大人の体に移り変わっているかもしれないが——がやってくることがあったら、何か言葉を残した方が良いのだろうか、とギアは考えていた。
「……ギア?」
エドラはギアの顔を覗き込んでいる。その視線に気づき、ギアは慌てて目を合わせる。
「あ、えと、考えておくよ」
その反応に、エドラは目を丸くした。自分以外との交流をほとんどしなかったギアに、遺書を残す相手がいたとは。気になったが、聞かないことにした。
ギアはぎこちなく読書に戻った。エドラは花瓶の水を換えようとしたが、既に水が新鮮なものへ取り換えられていることに気付いた。
「ギア、水を換えたの?」
「え? う、うん」
「そう。珍しいね、お前が変えるなんて」
「まあ……エドラがいつもやってくれてることだけど、今日はやりたくなって。最後だし」
「そう……」
ギアはとうとう本を読み終えてしまった。エドラの方を見ると、彼はじっと花を見つめていた。その雰囲気はどこか重々しい。ギアの経験則、こういう時は何か大事な話があるときだ。引っ越しとか、外出とか。命日が決まった日も、こんな雰囲気だった。
「……ねえ、ギア。話があるんだ」
「何?」
やっぱり。ギアは心の中で密かにそう思った。エドラはベッドに腰かける。
「お前は、自分がただのヒューマノイドじゃないことを知っているね?」
「うん。俺は特別体が弱いんだろう」
「そうだ」
ギアの体は一般的なヒューマノイドと比べてかなり脆かった。普通ヒューマノイドは外界の気温に合わせて自分の体温を調節するので、外が百度だろうがマイナス百度だろが生きていけた。でもギアはダメだった。上は四十度、下は十度の範囲でしか生きていけなかった。加えて、肌が柔らかいので外傷も受けやすく、修理にも時間がかかる。彼を修理できるのはエドラだけだった。
「お前の体が弱い理由も説明したね」
「ああ。感情や情動の動きが一般的なヒューマノイドよりも滑らかなんだろ。そういうタイプのヒューマノイドだって」
そう。なぜここまで体が脆いのかと言えば、そういう型だと伝えられた。体が脆い代わりに、外界の刺激を感じ取る情動的な能力が高かった。一般的なヒューマノイドは『感情プログラム』というシステムで、感情を導入していたが、ギアはとりわけ質の高いプログラムを導入されていた。
「そう。その話なんだけどね」
ギアはそうだと思って生きてきた。
「君には、死ぬ前にもう少し、自分について知ってほしいんだ」
「……何で?」
「君が死ぬことは、この世界で特別な意味を持つんだよ」
世界。
「世界って?」
「機械たちみんなにとって」
「……機械みんなの中で、俺が死ぬことが特別なの?」
「僕が死ぬのと比べて、ちょっと特別なんだ」
「俺が、特別なヒューマノイドだから?」
「まあ、そんなところかな」
エドラは立ち上がり、ギアに小さなメモリーカードを差し出した。
「具体的には、転送装置で向かってほしい場所があるんだ。そこであるヒューマノイドに会って、話をしてほしい」
「……俺だけで?」
「君だけで」
ギアは手を差し出そうとしたが、途中でひっこめた。しかし、エドラは引っ込んだ手を掴んで、メモリーカードを握らせた。
「転送装置までは付き添うから」
ギアの表情は少し沈んだ。朝ごはんを食べよう、と呟いてエドラはシンクへ向かった。ギアの隣を通り過ぎる時、頭に手を置いてくれたが、暗い表情は変わらなかった。
ギアは改めてメモリーカードを眺める。これを転送装置に差し込めば、装置がカードの情報を読み込んで特定の座標まで転送させてくれる。ギアも何度か転送を行ったことがあるが、そのどれも必ずエドラが同行した。エドラが同行してくれなければ、ダメだった。
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