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 とある水族館、通路の隅。曲がり角の水槽は暗く、赤色の弱々しい照明に照らされている。私はその中が気になり足を止めた。見れば、水槽に一匹の蛸が張り付いていた。脚を広げれば、自分の上半身と同じくらいの大きさになるだろうか。他の水族館で目にした個体よりもかなり大きい。それは自身以外には何もない、殺風景な水槽で、身じろぎもせずに息を潜めて居た。  私が水槽を覗き込んでいると、糸のように閉じられていた蛸の目が、すう、と開いた。半開きになった目から見えたのは、水槽の影より暗い、真っ黒な黒目。  ゲノム解析によれば、蛸は宇宙からやってきた生物らしい。それゆえ、宇宙人が蛸のような姿で描かれるのにも一理ある――眉唾ものの噂が脳裏をよぎる。すぐに否定しようと努めた。荒唐無稽にも程がある。  しかしながら、この目を見ていると、そんな噂さえ信じてしまいたくなる。冷たい水の中に生きるそれが見て、考え、感じることなど、到底我々の理解が及ぶところではない。別次元のものなのだと、直感が訴えかける。  私は逃げるように、温かい海の生き物を展示した水槽へと歩みを進めた。色とりどりの熱帯魚が明るい青の中に舞う。    蛸は暗い水の中で、人のいなくなった虚空を見据えていた。
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