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茂十がどこへ行ったのかはわからないままだ。
篭は枕に乗せた頭を少し傾けて、闇の中に沈んだ部屋の壁を眺めた。
鼻から息を吸って、口から吐いた。肘を曲げて腕を上げ、顔の前まで持ってきた。
眠れない彼は、こうして少しずつ体を動かす訓練をしていた。時は子の刻か丑の刻か、よくわからない。辺りは静まり返っている。
しかしその静寂の闇の中に、彼は声を聞いた。
『おい』
と、誰かが言った気がしたのである。
彼は首を回したが、誰もいる様子はない。
しかし彼はまた声を聞いた。
『おい』
何か、奇妙な笑いを含んだ声だった。
彼は、布団に入ったままの体に冷や水を浴びたように感じた。
「あれあぃ…」
誰かいるのか、と言おうとして、未完成の音が彼の口から漏れた。
くすくす笑う声がした。
部屋の中は全くの闇なのに、そこに何かがいるのである。
震えあがった彼は、布団を蹴飛ばして這い出した。何か光が欲しかった。
彼は体当たりするように障子戸に掴みかかり、今度はそれを壊さずに何とか開いた。
勢い余ってまた縁側の外へ転がり落ちたが、そんなことに彼は構わなかった。それよりも縁側の下の闇の中に、白い手と、白い歯が笑う口が浮かんでいるのを、彼は見た。
今度こそ彼は、全身の毛が逆立つのを感じた。
包帯の脚で立ち上がると、彼は自分でも知らないうちに駆け出していた。幸い庭には白い月光が降り注いでいる。
僧房の裏を駆け抜け寺の境内を出て左右もわからないうちに走っていると、林の中に池があった。
肩で息をしながら池に映る月を見て、彼はやっと人心地がついた。先ほどまで絡みつくようにあった悪寒はいつの間にか去っていた。
彼はひどく喉が渇いていることに気付き、速度を落として、よろめきながら池へ歩み寄った。
膝を折って背を曲げ、水を飲もうとして不器用に顔を池に突っ込んだ。
噎せながらも何とか水を飲み、ふと頭を上げてから、彼は揺らめく水面を見下ろした。
大きな月を背負い、包帯に覆われた人間が、彼を見つめ返していた。
篭は震える手で、頭を覆っている包帯を、無造作に掴んで引っ張った。
動作は無茶苦茶で包帯は絡まったが、やがて黒い髪が現れ、皮膚が現れた。
いつの間にか水面には、若い人間の男が映っていた。
癖の強い黒い髪に縁取られた顔には傷や痕一つなく、皮膚は健康そのものに見えた。ただ、黒い右目に対して、左の瞳が闇の中でもわかるほど、月光を吸ったような金色に瞬いていた。
それでもこの顔に見覚えがあるような気がするのは、面差しがどことなく茂十に似ているせいだろうか。
そこで、彼は唐突に安心に近いような感覚を覚え、同時に酷い疲れを感じた。
それは眩暈のようで、彼はそのまま池の端に突っ伏すと、草の上で目を閉じて眠り込んでしまった。
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