6. 日に焦がれ

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「盗人か!」  男は若く、剃髪(ていはつ)した頭を見るからに、僧侶らしい。篭より頭半分ほど上背がある。厳つい手で握っている紐の先に(ひさご)がぶら下がっていたが、それを篭に向かって振り回した。  篭は身を捻って躱したが、壁にぶち当たった瓢は砕け、中身の液体が飛び散った。酒の匂いが辺りに広がる。 「改悛(かいしゅん)せよ!」  やや怪しい呂律で、男は唸った。  瓢を振ったのとは逆の腕で、篭の首を掴もうと手を伸ばしてくる。まるで棍棒を振られたような威圧感を受けて、篭は反射的に大きく跳び退さった。  距離を取って気付く。男の輪郭から滲むように、二重の影が揺らめいている。 「待て、泥棒!」  酔いどれ坊主は大躯を器用に翻すと、まるで剣撃を繰り出すように、長い腕を次から次へ突き出してきた。  しかも厄介なのは、男の影が、実際に突き出される手よりも三寸ほど前に伸びてくることである。彼は本能的に、この影に触ってもまずいのだろうと理解した。 「よく動くな」  身軽な敵に苛立ちを覚えたらしく呟きながら、坊主は大鉈を振るように、長い足を彼の顎目掛けて繰り出した。  大きく仰け反って躱した篭は、重心を崩して背中から倒れる。しかし尻もちをついたと思ったら、地面の上で後ろ向きに一回転してまた立ち上がっていた。 「やるな」  なぜか今度は、僧侶は楽しそうな顔をした。  十馬の体の運動神経には感心するが、篭には嫌な感じがした。彼は喜代のもとへ戻らねばならず、この坊主と遊んでいる暇はない。 「これはどうだ!」  孔蔵という坊主は、またも掌を繰り出してきた。しかも先ほどより早いことが、篭にはわかった。  次々と襲うこぶしを避けるので精一杯で、体の向きを変えて逃げる暇はない。  知らぬ間に、彼らの周りには野次馬が集まっていた。 「おお、孔蔵じゃねえか」 「泥棒だってよ」 「なんだ、あの餓鬼は」  野次馬は好き好きにぼやいているが、喜代から銅銭を奪った盗人の姿はとっくに見えなくなっている。篭は泣きたくなった。  集中を途切れさせた一瞬に、こぶしと共に伸びてきた坊主の影が、彼の胸倉を突いた。衝撃とともに灼けるような痛みがあり、彼は声をあげる余裕もなく吹っ飛ばされた。  篭は背後にあった野菜売りの露店に突っ込む。野次馬がどよめいた。  痛みに呻きながら、篭は大根の上で体を起こした。襤褸(ぼろ)(えり)の合わせから覗く胸が、火傷をしたように赤く爛れている。 「おい、今触ったか?」 「はあ? 触らなきゃ倒れるかよ」  野次馬がまたぼやいている。しかし野次馬や篭以上に、篭を打った坊主が驚愕の表情をしていた。 「おまえ、妖魔か……!」  まずい。篭は今度こそ思った。  篭は野菜の上から跳ね起きると、坊主が驚いている隙をついて駆け出した。  駆け出してすぐに、彼らを囲んでいた人垣にぶつかる。坊主が迫ってきた。 「待て、妖魔!」  風の唸りを巻き起こしながら、今度こそ本気らしい掌底を僧侶が放った。あれを食らっては喜代のもとへ戻れなくなる。我を忘れ、本能のままに篭は跳んだ。  地面の上で、まさに垂直に跳んだ。  とても高く、小路を囲む平屋の屋根より高く跳んだ。  僧侶の掌底は、篭のそばに立っていた不運な野次馬を吹き飛ばした。街の向こうに一瞬、水平線が見えた。今度は篭自身が、先ほどの坊主よりも驚愕していた。  重力に従って落下し、平屋の屋根の上に着地した。下からわあわあと呼びかける声がする。  ただ混乱したまま、篭はとにかく逃げだした。  屋根の上を走り、騒がしい小路から離れた。
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