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『――――― 本当に、まったく気付いてなかったのね。ずっと近くにいて、ずっとお慕いしていたのに、何も感じなかったと』
八重を包むように螺旋を描いていた瘴気の風が、ぐん、と一回り大きくなる。
『八重の君の方を先に片付けないとまずいな。――――― 時に、お前はあの瘴気を喰らうのでは満足できないのか』
『俺としちゃあ、あの娘がもっと恨みつらみに満たされてくれた方がおいしくいただけるんだがなあ』
渋るような言い様に目を眇めた實親は、冷えた声で『そうか』と答えた。
『このまま放っておいては、まさしく八重の君は悪霊と化してしまう。慎之助殿を取り殺してしまう前に斬り捨てれば、お前が喰うどころの話ではなくなるが、いいのだな』
淡々と告げた實親が八重に向き直り、刀を下段に構える。
「お公家さん、どうしてもお八重さんを斬らなきゃダメかい」
『君はまだそんなことを……今の八重の君は話してどうにかなる相手ではないと、君も分かっているはずだ』
「それは、そうなんだけど……でも、なあ、慎之助さん」
實親に向けていた目を、地面に膝をついたまま八重のいる場所を見上げている慎之助に向けた。
「お八重さんの未練を断ち切ってやってくんねえか。あんたにその気はまったくねえってんなら、いい恰好するんじゃなく、本音でぶつかってやってくれ」
慎之助は驚いたように真白を見返し、目を瞬かせてから八重のいる方へと目を戻す。
「――――― お八重ちゃん。もう知っているかもしれないが、私はもう間もなくある人と夫婦になる。やはり武家の娘で、武士の妻たるにふさわしい人だ。できれば、お八重ちゃんにも祝ってほしかったよ」
腫れぼったい目を見開いた八重の顔がどんどん険しくなり、口の端が大きく避けて目は爛々と金色の光を放ち始める。
同時にこめかみの辺りから何か白いものが顔を出す。
球体の妖がくるりとその場で回転して、『あーりゃりゃ』と落胆したような声を漏らした。
『こりゃいけねえ。悪鬼になっちまった。やれやれ、賭けるんじゃなかったぜ。とっとと喰っちまえば良かった』
まるで首を振るようにゆらゆらと宙で揺れ、はあ、と盛大に溜息を吐く。
『悪鬼に堕ちちまったら不味くなる。仕方ねえな、まだ染まってねえこの瘴気だけいただいていくとするか』
言うが早いか、大きくその口を開け、八重を護るように螺旋を描いて吹き上げる瘴気を、ばくん、と喰らった。
妖の喰らいついた部分が切り取ったように消えてしまう。ばくり、ばくり、と一口食べるごとに一まわり、二まわりと体を膨らませる妖に、八重はまるで頓着する様子はなく、慎之助をひたりと睨み据えていた。
八重を覆っていた瘴気の分厚い膜は粗方が妖の腹に消えたものの、彼女のこめかみから伸びた白い角と、まるで般若のように変わり果てた形相。
『ちょいと味が落ちちまったが、まあ腹もくちたし、後はどうぞご自由に!』
そう言うが早いか、妖はくるりと宙で一回転してしゅるん、と消えてしまった。それを忌々しげに見送った實親は、舌を打ちたいのを堪えて八重に目を戻す。
『――――― 私の気持ちに気づかなかったばかりか、他の女との祝言を祝えですって……』
低く吐き出された声は酷く撓んで響き、もはやそれは八重の声ではなくなっていた。
『まさか……悪鬼に堕ちるとは……』
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