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『謝る必要などないよ。夫婦になったのはついひと月前のことなのだから』
實親が扇を揺らして言うが、信如には聞こえない。
信如は霊やそれに類するものが見えはするが、その声は聞こえないのだ。
「九条さまは何と仰ってますか」
だから真白に訊くしかない。腕を組んだ真白は、余計なことを、と言いたげな目で實親を見やって答えた。
「夫婦になったのはひと月前のことだから、謝る必要はねえってさ」
「そうでしたか。ひと月前に。それはおめでとうございます」
ぱあっと笑顔になった信如が言うのに、真白も腕を解いて耳の後ろを掻く。
「あ、いや、こりゃあ……」
毒気を抜かれた真白は一つ咳払いをして「で」と切り出した。
「相談ってのは? お前さんから出向くなんて珍しいじゃねえか」
問われて、信如もはっとしたように居住まいを正す。
「あっ、そうでした。実は、お二人に見ていただきたいものがありまして」
「俺たちに? 持ってきてるのかい」
「いえ、寺でお預かりしたものなので勝手に持ち出すわけにはいかないのです」
困ったように眉を下げる信如の様子に、真白は實親と顔を見合わせた。
「寺に持ち込まれたとなると、いわく付きかい」
「元々は、ただ遺品の供養のためだったのですが……」
「遺品」
信如は「はい」と頷いて続けた。
「人形師の園山久兵衛という方をご存知ですか」
問われて、真白は眉尻を下げる。
「いや、すまねえ。有名な御仁かい」
「私も人形には縁がなく存じ上げなかったのですが、なんでも将軍家より雛人形を依頼されるほどの職人だったそうで」
「へえ、将軍さま御用達か。そりゃすげえな」
目を丸くした真白は、ん? と首を傾げる。
「その人形師の遺品ってことかい」
「はい。先日四十九日を迎えまして、ご家族が久兵衛さんの作業場を片付けたそうで、道具類はまだしも、それなりに形になっている人形をそのまま捨てるのは気が引けるから、と寺にお持ちになったのです」
「まあ、確かに人形には魂が宿るって言うしな」
『元々、人形や形代は穢れや災いを代わりに受けてもらうためのものだからな』
「そうなのかい」
『上巳の節句……桃の節句ともいうが、人形で子供の体を撫でて穢れを移し、海や川に流したのだ。子供の無病息災を祈ってね』
真白が掻い摘んで實親の話を伝えると信如は「なるほど」と頷いた。
「江戸では雛人形を流したりはしませんが、土地によっては紙で作った人形を流す風習があると聞いたことがあります」
『雛人形は紙ではないのか』
「お公家さん、雛人形を見たことはねえのかい」
驚いて隣を見と、實親は目を瞬かせて頷く。
『貴族の姫たちが雛遊びをしていたが、それも紙で作ったものだった』
「それなら、きっと度肝を抜かれるぜ」
向かいで信如も面白そうに同調する。
「久兵衛さんの人形はとにかく精巧です。からくりもいくつかありますよ」
『それは見てみたいものだ』
興味をそそられたらしい實親の様子に、真白も楽しくなってきた。
「よし、善は急げだ、早速行くかい」
「助かります。そのために来ましたから」
ほっとしたように言って白湯を飲み干す信如を、真白はふと見返す。
「……そうか。その人形がいわく付きってことか」
「はい」
腰を浮かせたまま呟いた真白に、信如は事も無げに頷いた。
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